お笑いを見なくなり代わりにアニメを見るようになったが、別に特に強く見たいわけでもなく、何となく見ている。話題で人気のアニメを見ることに対して全く興味を持てなかったが、これはべつに斜めっていたわけではなくて、単にそれよりも自分にとって大切なものがあったからだった。それはたとえばラジオだったりしたわけだが、強く自分の意思で選択してインプットする欲というものがほとんど枯れてしまい、アニメでも見るかという気持ちになった時、話題で人気のアニメを見るのが簡単だった。そもそもアニメには大抵原作があり、原作が話題で人気ゆえにアニメになるわけなので、アニメを見るイコールそういうことだった(アニメ好きからしたら反論したくなることを言っていることは自覚している)。
それの何が良いかと言えば、周りの人とのコミュニケーションの道具になってくれるということだ。音楽をよく聞いていた高校時代、音楽好きを公言して誰かと繋がることに飢えている人間に、音楽をコミュニケーションの道具にしてんじゃねえよ、と思っていたが(音楽に関わらず、好きなものを誰かと共有することに耐えがたい苦痛があった)、私は今アニメでそれをやっている。自分のことをアニメ好きだとは思わない。ただ、アニメを流してみて、それは物語なのだから面白いと思えるわけで、キャラを好きになったりもするし演出すごいなあと思ったりするわけでそういう話をふとしたときに人と話すとコミュニケーションになるのだ。小中の時にはこれをよく知っていながら、自分の意思でコンテンツを見ることを許されていなかったため(テレビもインターネットも使用権は厳しく制限されていた)、人の話をちょこちょこ聞いて自分の中で点と点を結んで、その話題になった時に適当に話を合わせられるくらいの情報量をいつもインプットしていたことを思い出し、それが高校生の時にはバカらしくなったわけだが、今になって何かを取り戻したような感覚にすらなる。私は小学生の頃からずっと本を読むのが好きだったが、本を読むことを共有できる人は周りにいなく、大人になると割と自分の周りに読書好きがいたということに気づいた時にはすでに遅く、周りの人がよく読むという小説を私は全くと言っていいほど読まなくなり、自分の切実な問いや悩みを解消してくれるようなエッセイや情報量の多い単行本などを好んで読むようになっていた。本が好きというよりもはや、頭が痛いから痛み止めを飲むように、私にとって読書とは切実な行為となっていた。小学生の頃から本を読んでいることを同級生は「すごいね」とか「えらいね」とか、言われて不快だった、高校生になってもそんなこと言ってくるのがいたが、お前らがアニメや漫画を見るのと同じことなのだということが理解できない奴らなのだと思っていた。そうやって真面目な人間に対して「すごいね」と言いながら心中、自己啓発的な事柄から自由でいられる自分、みたいな、そういうマウントをとっているのだろうとひねくれた私はそう受け取った。勉強してないマウントばっかりとってた奴らの集まりだったから、その亜種なんだろうと思った。不快だった。文学部に進んだら流石に周りにそんな馬鹿なことを言う奴はいなくなり、非常に穏やかな気持ちで私は4年間を過ごせた。今でも読書をしているとすごいねとか言われるが、お前もアニメ見ててすごいねって感じだ。あんた映画見ててすごいね。ドラマ見ててすごいね。YouTube見ててすごいね。TikTok見ててすごいね。ゲームやっててすごいね。ブログ書いててすごいね。サッカーやっててすごいね。サウナ行っててすごいね。キャンプやっててすごいね。生きててすごいね。ウケる。
あ、タイムラインにオードリーの東京ドームの公式やU-NEXTが流れてくるのやめてもらえませんかね。
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