ネガティブを潰すのが没頭だとして、それは現実逃避と何が違うのだろう、と思う。
現実というのは一体どういうものかといえば、これから80年くらい生きると仮定したうえでの、生存政略を立て、そのための努力、たとえば資格を取得する、貯金する、投資する、などの行動のことを指すのだが…。これらに没頭できない場合、没頭は単なる現実逃避となってしまうんじゃないのか。たとえばアニメを見たりゲームをしたりすることで没頭している間はいいが、ずっとそうしていられるわけではなく、フッとした瞬間に、たとえばシャワーを浴びている時や、布団に入って眠る前に、「ああ私は何をやっているんだろう」と、リバウンドの如くより深いネガティブに苛まれる。このリバウンドの威力が強ければ、「自分は生きている価値がない」というような強い自己否定の感情や、「死んでしまいたい」といった希死念慮にまで到達してしまうことになる。それはそれとして私は希死念慮を抱くこと自体を悪いこととして捉える向きがあまりよくないのではないのかとも思っているのだが。そういったネガティブにとらわれる時間が苦しく辛いのであれば、何かに没頭するなんていう、自作した対処法ではだめで、臨床心理士などに相談すれば、なんたらかんたら法とか、ちゃんと名前のついた対処法を教えてくれたりする。身体や言葉の力を使って何度も反復する、訓練をしなければいけない。しなければいけないとか訓練というと強くてしんどい言葉になってしまうんだけど、でも世の中に蔓延するネガティブから抜け出すためにお金を巻き取ろうとしてくる甘い言葉たちには全力で対抗していかなくてはいけない。カウンセリングも高いけどさ。没頭というのもある種のマインドフルネスだとは思うわけだが。
そうして強いネガティブの言葉に身体が拘束されていくような感覚から抜け出すことができたとしても、ネガティブを潰す没頭はなお、現実逃避という現実を私にもたらしてくる。身体は動く。仕事には行ける。涙も出てこなくなった。それでも、それでもなにかをしなくてはいけないのではないか、と急かしてくる現実と、そういうものへのカウンターとしての甘い言葉。どっちに乗っかったって結局この資本主義システムの中で搾取されていることに変わりはなく、自由になんかなれない。余暇は労働で得た富を消費し、何をどれだけ消費しても何も満たされることはない。なんだこの虚しさは。暇と労働を繰り返しているだけ。朝から晩まで働いて、金曜の夜に飲む一杯のビールの喜びなんぞわからない。私はなんのために働いているのだろう?そんな中でひとり何かに没頭して過ごすことがどれほどのカウンターになっているのか。飢餓の問題が解決した世界なんだから、世を捨てて、ポムポムプリンを投げて1日過ごせばいいんだろうか?そこに迫り来る不安への対処法はあるのか?
そんなものはないのだろう。本当のことなんかどこにもなくなったし、信じるものは人それぞれで、人それぞれに宗教を持ってる。私に自由は与えられているが、それは謳歌することのできない自由。翼はとっくに与えられていたらしいが、それが翼とは知らなかったし、飛ぶ練習もしてきていない。このネガティブの穴の底に何もなくても、もう飛び出すことができない深さまで来てしまった。たとえ穴から奇跡的に出られたとして、そこは有象無象の世界だ。せめてこの穴掘り続けてたら、温泉でも沸いてきませんかね。
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