椅子取りゲームなんだよな、と、
使い古されたクリシェもクリシェのことを思う。
クリシェだからなんだっていうんだ。
敗北とは、努力不足の怠惰な結果を言うのではない。減っていく椅子の前に、理不尽に突き落とされた結果だ。
椅子に座っている彼らの努力とは、隣人を突き落としてでもそこに座ることを言うのだろう。
私はこの、平等という面を被ったその実ただの運ゲーである、資本奪い合いゲームから一刻も早く降りたい。降りるにはどうしたらいいのか、Google先生は教えてくれない。
インスタもTwitterもGoogleも、いつのまにか資本主義に汚染された検索結果しか出てこなくなってしまった。
世界が壊れているように思える。インターネットを世の中の全てだと思うな。それでもそれが私の見ている世界であることに変わりはない。
こんな世界で生きていたくない。
オルタナティブな世界を生きることを諦めたわけではない。自らの言葉を持ち、それを使って世界の再構成を試みることだ。
私の見ていた世界は、言葉は壊れてしまった。
オルタナティブな言葉を私は紡ぎたい、紡がねばならない、のに。
いつまでも強制的に参加させられたゲームから降りられないせいか。希死念慮が度々去来する。
まだ、希死念慮はまだいい。友達になれる。
敵は虚しさだ。虚しさがすべてを覆ってしまう、なにもかもがどうでもよくなる。
言葉など、なんの意味もない。なんの生活の糧にもならない。そんなことをして、一体なにになる?
いつからこんなことになった。
少しずつ進めることしか許されていない。そうして積み上げたものも、去来する虚しさに奪われる。彼が去るまで、私は耐えることしかできない。
🍨
このようにして、久しぶりにはてなのエディタを開いたかと思えば、結局私は、書く/書かないことの言い訳をまた、飽きもせず!
そりゃあ、なんの糧にもならないだろう。
ずっと、同じことを語彙や表現のレベルだけ変えて言い続けているのだから!
しかし、同じことを何回も何回も言うことの何がいけないというのか。
絶えず変化する世の中と、絶えず変化することを求められる現代社会において、それでも安定を欲しがって結婚や家族を求めるように、
今いる場所がどこなのかわからなくなって、目印なんか一つもなく、どこを向いたらいいのかもわからない中で、
何度も何度も同じようなことが書かれた自己啓発本が売れに売れるように、
自分にとって何度も確かめなければならないことを、そしてそれがいつだって言い足りないことを、それでもなにか大切なものを離さないために言おうとすることを、
同じことを違う言葉で言うひとりあそびを肯定してもいいんじゃないか。
何度も確かめないとどこかへすり抜けてしまいそうになることを、その時その時の自分の言葉にして離さない。
その時その時の私にとっては、たとえ同じことを言っていたとしても、それはオルタナティブな言葉だと言えるんじゃないだろうか。
言葉にすることでこぼれ落ちてしまうものも、何度も何度も言うことで補完し合う部分もあるんじゃないか。
砂の城は、日々の忙しさに流されて跡形もなくなってしまう。
それでも、ふと思い出した時に、また城を作るのだ。
その城は未来の私の糧にならなくても、今の私にとっての糧にならなくても、また流されてなくなってしまうとしても、今、城を作っている私にとって絶対に必要な城なのだ。
そのとき、椅子取りゲームの音楽は止まっている。
不完全で不恰好な、それでも前回とは違う魅力を持った城だ。