アイスクリームと獅子

※当ブログはアフィリエイト広告を利用しています←これは景品表示法の改正でみんながしているのをマネして書いたものです。

好きを語り合うのが嫌いだった

同じものが好きだという理由で友達である人が一人もいない。

好きなものが同じ者同士でどのように話をしたらいいのかわからない。

好きなものが同じだからと言って同じことを感じているわけではないし、どこが好きなのかも全然違う。

それなのに、好きなものが同じ者同士であれば必ず共感し合えるはずだ、という圧が、かつての私にはかかっていたと思う。

そんな圧は私の思い違いだったかもしれないが、とかく「共感しなければならない」「共感されなければならない」という課題がそこにはあり、クリアできないことが私にはわかっていた。そしてその要因が相手ではなく自分にあることも。

いつもずれているのは私の方だ。それをわからされるから私は好きなものが同じ者同士で話すのが嫌いだった。嫌いだったから、極力そういう機会を持たずに済むように人間関係を紡いできた自覚がある。そこには努力もそれなりに注いだと思う。

 

「好きならこう感じるでしょ」というような、好きを理由に思考や行動が制限されていくのが許せなかった。

「私は、おまえらとは違う」という傲慢な思いもそこにはあった。私はおまえらが気づかないような高尚な理由でそれを好きなのだ、と。

 

私はいつも、わかってあげる側だった。私の言っていることをわかってもらえたことはなく、人はみんな私のことを「違う視点でものを捉えていて面白い」と言った。それはそれでありがたく、面白がってくれる友人に恵まれているのだが、同時に孤独を感じるのが素直な私の心の動きだった。

相手の話を聞いて、自分はすでにそれを考えたことがあり、自分なりに考えて結論に辿り着いたことがあるから、相手をわかってあげることができた。でも、私が共感しなくなったら、相手は私から離れていってしまうのではないか?と思って怖かった。

 

一方で私は、何も考えてなさそうな、楽観的で、死にたいなんて一ミリも思ったことのないやつを捕まえて、全くわかってもらえないだろうという状態で一方的に話しまくることに安心を感じたりもする。

 

今は、「共感」という呪縛から離れて人とコミュニケーションをとることをあまり怖がらなくなった。

共感しないことは相手の考えを否定することではない。共感がないコミュニケーションは不安だらけのコミュニケーションではない。

相手を「わかってあげよう」とせず、自分のスタンスを表明することは、相手を否定することではない。

 

そして、好きなものを語る時、同じものが好きでもスタンスや意見が異なるままでお互いに話せる友も、今の私にはありがたいことにいる(同じものが好きだからという理由で友達になったわけではないし、多分そういう友達の作り方は今後も積極的にはしないとは思うが)。

共感という呪縛から離れたコミュニケーションを模索した結果でもあると思う。