自己否定を嘘で塗りつぶせ
だから私は今日も嘘を吐く、嘘が本当になる事を信じて。
アニメ『推しの子』一話
色々理由はあると思うのだけど、自己否定の癖がついてしまっている。
「自分に生きてる価値はない」
「何も作れていない自分はダメだ」
「自分は誰にも愛されない」
こういった言葉はまるで客観的な真実かのようなリアリティで私の心に響く。
だからいつまで経っても抜け出せない。
カウンセラー曰く、このように染みついてしまった認知を、消すことはできない、らしい。
ではどうするかといえば、認知を上書きするのだ。
ここからはカウンセラーに言われたわけではないが、
「私は私のことが大好き」
「私がやっていることは価値がある」
「辛くても大丈夫」
といった言葉を上の自動思考の代わりに唱える。
本当にそう思っているかどうかは関係ない。
たとえば、人の楽しそうなインスタを見て、もやっとするとき、自分も楽しく過ごしていると言うことが忘れ去られ、自動思考が発動する。
だからもしもそうじゃなくて、本当に毎日楽しくなかったとしても、人と比べる必要はないという意味で、そのとき「私も毎日楽しいよ」って言うと、楽になる。最初は楽にならなくても、続けていると、楽になってくる。
言霊なんて言葉もあるけど、そもそも言葉には事実モードと発想モードの二種のモードがある。
事実が先にあるか、言葉が先にあるかの違いだけど……。
例えば詩とか小説とかで使われてる言葉は発想モードの言葉だ。
何も創作に限らず、私たちは普段、事実モードと発想モードの言葉を無意識に切り替えながら使っている。
そして事実が先にあったか言葉が先にあったかは曖昧で、どれもが事実みたいになって、話は進んでいく。本当かどうか、ということは、普段の会話においてさほど意味はない。
楽しむ訓練
そもそもなぜ、嘘をついてまでそのような自動思考を塗り替えたいか。
自動思考に苦しまされて楽しく過ごそうとすることが阻害されているからだ。
とはいえ、日々を楽しみたいなら、自動思考を塗り替えるだけではなかなか難しい。
日々を楽しむ努力も必要で、楽しむ力というのも身につける必要がある。
私はそれを國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで確信した。
問題は、いかにして楽しみ・快楽を得るかではない。いかにして楽しみ・快楽をもとめることができるようになるか、である。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)Kindle版 54ページ
私は、すぐに自分のしていることを意味がないとか価値がないとか思ってしまって、自分でしたいことも自分でつまらなくしてしまうことがよくある。
そういう自分に対してどうしてそう思ってしまうんだろうって思うし、やりたいことをやっているはずなのにずっと虚しくて、普通に辛い。
だから嘘でも「私は私が大好き」とか「自分のやっていることには価値がある」とか「私がやっていることはすべて素晴らしい」とかって声に出したり思ったりするのは、本当はそう思いたい、という気持ちを消そうとしてくるネガティブな脳に拳銃を突き刺してバーン、しているのとほとんど同じことなのだ。
敵は脳内にあり。
楽しむ訓練におけるサボローなんだよこいつは。
ケーキを作る
そういうわけで、私はふと思い立ってレアチーズケーキを作ることにした。
思い立ったが吉日(いい言葉)。
(材料費のほとんどをクリームチーズと生クリームが占めている)
作っている自分の様子を、冷蔵庫の上の電子レンジの上にiPadを設置して録画してみることにした。
キッチンにカメラ設置して料理するとか、黄金伝説みたいだな、と思った。
それはそうと黄金伝説のホームページってまだあるのかなと思って見たらまだあった。
オードリーってスタジオにいる枠だったんだ。全然覚えてない。
閑話休題(言いたいだけ)
レアチーズケーキを作ってみて、思ったことは色々あるけど、第一に、私にとってお菓子作りはそこまで自分の充実度を上げる行為ではなかった。
私はそこまで甘いものが好きじゃないので、お菓子作りをして大量に出来上がった甘いものを食べるということを億劫に思った。
誰かにプレゼントするという手は、友達の少ない私には使えないし、そもそも、人にあげられるレベルのものを作れてないと思う。
お菓子を作るくらいならば、ちょっと凝った料理をする方が満足度が高いと思った。
調べたレシピでは果汁グミは桃だったが、近くのスーパーに売ってなかったのでみかんにした。
けれど、やはり桃の方が良かったと思う。みかんはみかんみが強すぎる。
あるいは、マスカットでも良かったかもしれない。
おそらくもう2度と作らないから反省しても意味ないのだけど……。
ただ、自分の行動を動画に撮って記録しておくというのは、結構面白いと思った。
見直してみると、ずっと独り言を言いながら、自分の体から遠いところでボウルの中身を一生懸命取ったり、不安定なところにスプーンを置いて落としたりしていて、面白い。
愛すべきバカ、という感じだ(違うか?)。
特にもう言いたいことがなくなった。
話に収束がつかないけど…
そうだな。
話は戻るけど、自分のやってることに意味がないと思ってしまうのは、多分いろいろ理由があるのだと思う。
こんなことしてもお金にならないし、誰かを喜ばせたりするわけでもないし、エトセトラ、思ってしまう。
意味が欲しい。
意味は欲しいけど、まあ、意味がないって思うことで辛い休日を過ごすくらいなら、ひとまず、自分のやってることに意味はあるって思い込みながらやってみたらいいんじゃないかと今は思ってる。
大学生の頃は、文学部意味ないとか言われて、意味のないことの何がいけないんだよ!とか、怒ってたのになあ。