アイスクリームと獅子

ただの記録です

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*これは記事ではありません







はじめに



徒想
徒然草と随想から取った私の造語です。日々の考えていることについて節操もなく書き連ねています。



読んだ本の感想とか、読後の感覚とかを書いています。ネタバレはないと思います。


ドラマ
見たドラマの感想です。だいたい雑感で、メモみたいな感じで思ったことを書いています。ネタバレしてます。


音楽
その時好きな音楽について書いています。だいたい一曲について好きなところとかなんで好きなのかとか書いています。


映画
映画館で観た映画の感想を書いています。ネタバレしかしてません。たまにテレビとかで観たもので面白いものも書いています。


お笑い
お笑いの番組とかライブの感想です。


日記
日記です。その日あったことと感じたことを書いています。

morning coffee

新学期が始まってから、所謂朝活をしている。

理由は、朝の時間を無駄にしたくないから、なんてのはカッコつけすぎで、家から駅まで30分も歩きたくないからだ。


朝早く出れば、自転車を駅の駐輪場に止められる。が、そこで電車に乗ると、満員電車のピークに巻き込まれる。
そこで、早く出て、駅のカフェとかで朝を食べて勉強なり読書なりをするのだ。
ちなみに今は、高校の英語、動名詞の勉強をしたところだ。


めちゃくちゃ豊かな生活をしている気になるのでおすすめである。




人見知りは人嫌いじゃないよなぁということについて考えていた。

そもそも人見知りとは何かということなんだけど、ここでは、モデルケースとして1つの例を置いておく。

これは無論私のことだが、人見知りの特徴として、話が続かないというのがあると思う。
言われたことに対して「へぇ」と言ってそのあと話を続けない。聞かれたことに対して簡潔に答えてそのあと話を広げない。
ひどい時は何も言わない。こちらとしては何か考えている最中ということが多いのだが、向こうからしたらそれは無視である。
ごめんなさい。



ではなぜ話が続かないのか?
その理由第一位は嫌われたくないから、だろうな。
聞かれた内容について話を広げることはできる。むしろいろいろと普段から考えているわけだから話したいことは常に飽和状態だ。
しかし、その話を今自分のペースで話しても良いものだろうか。相手に興味はないのではないだろうか。
もし引かれたら……嫌われたら……。
というふうに考えた末、先に述べたように相手を無視して嫌われるのである。



つまり、バランス感覚がわからない。この話はどこまで広げるべきなのか。どこまでのラインが相手を困惑させず、飽きさせず、引かせないのか。

だから本当は、人と仲良くなりたい気持ちがもしかしたら、強いのかもしれない。



というようなことを考えていた。
私の好きなエッセイストであれば、ここで朝活話の伏線を回収するのだが、私にはそんな芸当ができそうにもないので、これで終わりにする。

映画 ゴールデンスランバー メモ

中村義洋監督作品が好き。
濱田岳さんが好き。

ゴールデンスランバーが観たい!


って、だいぶ前から思ってたけど、すぐ近くのツタヤに置いてなかったから、もうほんとにようやく観れた〜って感じ。
原作は読んでない。伊坂作品に苦手意識を持ってしまっているので。



観てる間はもうずーっと、追われてる緊張感と、信じてくれる仲間がいるとわかる時の安堵感を、堺雅人さん演じる青柳と一緒に感じるようだった。

濱田岳が出てくる時のミョーな安心感ね。



で、最初のシーンで終わるっていうのも、なんだか余韻を感じられて好きでした。


岳さんも堺さんも、あんなに動けたんですね。



観終わってちょっとして、
「面白かったー」って呟いた自分にちょっとびっくり。
映画観て、面白かったってすんなり言える作品ってあんまりなかったなって。まぁなにより、私はあんまり映画得意じゃないってのもあるけど。

映画観た後って、結構、感動したり、考えさせられたり、あれどういう意味だろう?とかって疑問が湧いてきたりするんだけど、これ観終わった時は、ほんとにすんなり、「面白かったー」って思った。
それだけ。
それだけなんだけど。それだけが大事というか。



キルオとラーメン食べるシーンがやけに印象に残っている。
「眠そうですよ?」
「黄金のまどろみ」


あとは、車。だよね。やっぱり。回想も、動け動け、っていうシーンも。
あとは、運送会社の同僚があっさり信じるシーンだよね。うんうん。
あとは、キスシーンだよね。
堺雅人さんって、かっこいいんだね。初めて思った。まぁ8年も前の作品ですが。


最後も、完全ハッピーエンドではないけど(むしろそうだったら困る)、ボタンの押し方で気づかれる、一瞬堺雅人の顔になる演出、はい好み。


香川照之竹内結子、でんでん、柄本明伊東四朗



こうなるとやっぱり、アヒルと鴨のコインロッカーも、フィッシュストーリーも、観たくなるよね〜。なっちゃうよね〜。
小学生のころに観た、ちょんまげぷりんももう一回観たいわ〜。
てか、中村義洋作品全部観たいわ〜。

木下龍也「君を嫌いな奴はクズだよ」から一首

立てるかい君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ

木下龍也「君を嫌いな奴はクズだよ」p122



普通の、っていうか。
「君の苦しみを僕が背負うよ」
っていう救い(っぽい何か)の言葉としてありきたりすぎて、何度もいろんなドラマやJ-POPの歌詞に使われていそうな言葉が浮かぶ。



でも、私のような人間(あえて私に限定する)が、そんな言葉で救われるわけはないんですよね。


私の苦しみなんかわかるわけないじゃないかと。
仮にわかったとしても、それを私の心とか背中とか肩とかから引き離して、誰かが背負うっていうのは無理だからな。と。


もしそんなことができるのなら、それは最初から私の苦しみじゃなかったんだよ。と。



そんな、ひねくれ?ているような人間に響いてしまうのがこの一首。


この歌は言っているような気がする。
「じゃあ」って。「それならこれはどうですか?」って。

君の背負っているものをあなたから引き離すことができないなら、「君ごと」背負おう、って言うわけですよ。


まさに私のようなひねくれ者の盲点を突くんです。
「誰にも救えねぇよ!」って誰かの救いを拒絶してしまうような人間が、拒絶できないところに追いやられる。



しかもきわめつけは、「こともできるよ」っていうところ。「背負うよ」とは言わない。押し付けがましくない。
「まぁ別に、これも嫌ならいいんだけどね」と言うように。「一人で立てるなら、それでもいいんだけどね」と言うように。




多分、もしも一人で立てたとしても、この人はとなりにいてくれるんだろうな。

だから文学から離れられない

私の短い人生で、自分の涙をコントロールできなくなったことは3回ある。


一度目は、小6の時父に勧められるがまま「西の魔女が死んだ」をよんで。
二度目は、父のこと。
そして三度目は今日。




まず言っておきたいのは、私は「泣ける!」とかいうキャッチコピーが苦手だ。
映画を見て「泣けました!」と笑顔で言っているCMとかに嫌悪感を表す。
卒業式でも泣いたことはない。

そういうのを見ていると、「簡単に泣けて、いいっすね」とまで思うくらいのひねくれぶりだ。



そんな私が今日、泣かされたのは、若林正恭の「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」である。
ついこないだ同著者の作品の感想を書いて今日がこれっていうのはなんとも恥ずかしいような気もするのだが、それほどまでに心が動かされてしまったのだからしょうがない。



買う前に、ツイッターでちょろっと感想を見ていたら、何個か「泣きました」という感想があって、「ないだろ」と思ってた私がまんまと泣いてしまった。

「あっ、これ、泣きそう。やばいかも」と思った数秒後に、勝手に涙が頬を伝って、止めようと思っても無理だった。
「いやいやいやいや、さっきまで、ないだろって思ってたやん!」と心の中でツッコミを入れながら泣いた。
一度流れたらトリガーが外れたようにとめどなく溢れでてしまった。


「まじかよ」と言いながら、「うわぁーなんで泣いてんの」とか言いながら、意味わからんくなりながら、ちょっと笑ってみながら、
「いやいやよく考えて、若林だぞ!」(失礼なやつだ)と思いながら涙を止めようと試みても無理だった。「参ったなぁ」と思った。
手が震えて涙で視界が奪われて読み進められなくなった。
それでもなんとか読み終えて、今これを叫び出したい気持ちに駆られながら書いている。




前作と違って軽い共感とともに読み進めた今作。思ったことをノートに書き付けて行きながら読んでいたけど、読み終わった瞬間そんな感想たちはどうでもよくなった。



p176からの「音叉」。
キューバ最終日、散歩をしながら誰かと言葉を交わす著者。
誰だろうか?と思いながら読む。心のうちにいるもうひとりの自分か?と思ったが、途中の人間関係を音叉に喩すところで違う誰かだなと思う。
誰だろう。誰なんだろう。
私はこういうとき、気になって結論を先に読んでしまったりするのだけど、はやる気持ちをどうにか抑えてちゃんとその通りに読んだ。


そしてそれはその節の最後の一行でわかる。
ここで私の涙腺は壊れた。
そのあとの「マレコン通り」は嗚咽しそうになるのをこらえながら読んだ。何行かに一度本を置いて涙をぬぐいながら読んだ。
大声で泣き出してしまいたかった。
なんでだろう。
わからない。





前作を読んで「自分じゃん」と思った。若林さんからしたら自分の半分しか生きていないガキにそんなことを思われるのははなはだ傲慢に映ると思う。自分でもそう思うから。
その人が自分の味方を失い、一人で悲しみたかったという。


親父が死んでから、僕は悲しみたかった。
でも、「俺は物心ついた時から親父はいなかった」とか「37歳まで親父が健在だったんだから幸運じゃないか」と言われると、悲しんではいけない気がした。
東京では。
この街では、肉親が死んだ時に悲しみに暮れることさえも、自意識過剰になってしまっている。
だから、逃げることにした。
知ってる人が誰もいない環境で一人になって思いっきり悲しみたかった。
だって、ぼくは悲しかったから。
p190

「だって、ぼくは悲しかったから」
私にはもう無理だった。勘弁してほしかった。
だって、「私は悲しかったから」なんて言えない。
私が父の死を悲しめないのはどうしてなんだろうと思う。
自分を客観視してしまうからなのかもしれない。


私はそのあとも、普通に学校に通って、普通にしていた。普通にしていなきゃいけないような気がしていたし、普通にすることは得意だったから。
「なんか、よくわからないんだよね」と言いながら。「実感わかないんだよね」とか言いながら。



本当はそんなことはないに決まっている。
自分の感情に蓋をしている。
それ以外に私は私を守る方法がわからないから。


ところが自分と同じだと少しでも思った人間が、素直に吐露している。そのことが、私にはもうどうしても無理だった。無理だったなんていうのはただの逆説で、どうしようもなく泣いてしまっていた。


そんなことに重ねないと自分の悲しみもわからないのだと思った。




本当は私はこの本についての感想を書きたかったのだけど、自分の話になってしまった。
どうして泣いてしまったのか考えずにはいられなかった。
この本の感想をこの後書くかもわからない。
とりあえず、それが今考えうる泣いてしまった理由だ。もしかしたら違うのかもしれないけど。






私は単行本は基本的には買わないのだが、この本を買ってよかったと心から思う。

3/26 TEEN’S MUSIC CAMPに行きました

3/26に行われたライブに、友人が出るので行ってきた。


私と年のさほど変わらない人たちが、自分たちの作った曲でライブをする。



比べるのは大変失礼だけど、私も高校の時一度だけライブハウスでライブをしたことがある。
それで、そういう雰囲気とか少し思い出したりもした。




私は、その舞台を観ていて、ほとんどずっと思っていたことがある。
私もそっち側に立ちたい。


単に、その舞台に立ちたいという意味ではない。音楽をしたいという意味でもない。
私は彼らのように、自分のことを表現する側にありたいと思ったのだ。


ライブ中、何度も何度も思った。
自分がそんなことを思っていることに驚いていた。

私は自分が表現をすることに対して非常に後ろ向きだった。
少し前までは。
自分がその立場に立つことは世の中にとって、表現の世界にとって害悪であるとさえ思っていた。




だからそんなことを思った自分は、前よりもずっと変わっていると思った。
それに気付かされた。





話は変わって友人の舞台を観ているときは、そういう思いはほとんどなくて、その音楽に吸い込まれるようだった。



友人だから観に行ったわけじゃない。彼女の奏でる音楽が好きだったから観に行った。
やっと生で聴けたことの感動と、曲の良さに泣きそうになりながら。




良い夜をありがとう。

完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込 について書きたい

すみません、僕、自然体でドトール、頑張ってスタバなんです。スタバのときは入るだけでいっぱいいっぱいなのでショート・カプチーノしか頼めません。
穂村弘「整形前夜」p202

スターバックスカフェが好きになり、毎日通った場合「お洒落ぶっていると思われるんじゃないか」と後ろめたくなったり、他人にバカにされたことはないか。
星野源「蘇る変態」p36

ぼくは「スタバ」で「キャラメルフラペチーノ」の「グランデ」を飲んでいるところに知り合いが来たら窓を破って逃げる。
若林正恭「完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込」p50

最近読んだ3冊のエッセイである。
面白くないですか?これ。

三者三者ともスタバについて、おんなじような気持ちを抱いている。
もちろん、前後の文脈的にニュアンスや伝えたいことの差はあれど、これは面白い。


なんだろうこの、おじさんたちの、「スタバ」=「ぶってる」象徴みたいな。
世の中に後ろめたさを感じるときの象徴としてあげられるスタバ。




まあいいや。
最近読んだこの3冊のエッセイ、似たようなことがよく書かれていて、比べているととても面白い。まぁだいたい、この人のエッセイ好きだろうなと思ってこちらも買っているので、似ているのは私の中にも通底した何かがあるんだろうなと興味深くもあり。

だから、私の好みとか性格とかがよくわかるようなんだけど、その中でも若林氏の著作が共感を越えて「もはや、自分じゃんか」となるほどだったので書きたい。
ここまではそのための前振りです。


本とか映画の感想書くの、めっちゃむずいね!





無論、「自分じゃん」ってなる部分が多いってだけで、共感までの部分も、それはようわからん、っていう部分もある。
だけど概して、「わかる」というのもなんだか傲慢だけど、そこに通底している本質みたいなものがグググっと私の心の深いところにも浅いところにも刺さるのだ。


ときに泣きそうになるくらいの救いが書かれていたり、それこそお笑いを聞いている時のように笑ってしまったり、よくわからないけど、「いやもう、降参です」という感じだ。
利他主義を標準装備、とか。


本から得られる救いなどというものは、単なる励ましの言葉なんかじゃない。
私以外の誰か(この場合著者)が私と似たような悩み、苦しみを持っていること、それだけでももちろん。私が思いもよらなかった方法によってそれを解決したり飲み込んだりしていることを知り活路があるとわかることはもっとだ。

みんなはなんで考えなくて済むんだろう?どうすれば考え過ぎなくなれるのか?と、今度は考え過ぎない方法を考え過ぎていた。p139

この言葉、同じようなのが私の過去の日記のどこかにありそうだ。
こんなことを思っていたのは自分だけではなかったんだ。という安心感。誰一人自分のような考えは持っていないんじゃないかという孤独感にそれは光を与えてくれる。




この本の最初と最後では、随分と作者は変化しているように思う。
作者自身、途中で自分の最初のエッセイを振り返ってツッコミを入れている。グランデを飲めない自分に飲め飲め!とか。

「夜の公園でバケツをかき混ぜている君」なんていうのは序盤の公園で時間を無駄にしている作者自身のことを指しているんだろう。
無論、私には私のことを言われているのだとも思ったけど。

深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい。そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、それただの穴だよ。p142

だけど私の心にぐっと刺さってくるものたちは、一冊を通して横たわっている。
著者は一貫して天邪鬼でネガティブで考えすぎている。性格は変わらない。
ただそれに対して自分の振る舞いをどうするべきかの答えを見つけているだけなのだ。

僕らのような人間はネガティブで考え過ぎな性格のまま楽しく生きられるようにならなきゃいけないんですよ。p239


それから自分の好きなものを守ろうとしている。それはつい昨日の、ラップの話になったラジオを聴いていても同じだ、と思った。

好きなものは好きでいいじゃない!そうはいかない。p156

私も好きなものを守るためにひっそりとしていたいという気持ちがある。
一度、それができなくて好きだったものを嫌いになりかけたこともある。
そんな私には突き刺さりすぎる一言だった。



もっとも刺さったのはここだ。
p163からの、『「穏やか」な世界』。
みんなが言っていることは正しいということに後から気づく、という話。それに気づいて、憤りがなくなって、心は穏やかになるという話だ。

私はここを非常に共感しながら読んだ。ブランド物なんてくそくらえととんがっている感覚も好きだけど、私の本来の共感は穏やか寄りだ。
みんなが言う通り、美味しいものもブランド物も見た目を気にすることも素敵だ。そういうのを素直に思えてからは心がざわつくことは一気に減る。私も同じようなことを考えることがあった。

だけど、その後で若林さんはこう言うのだ。

だけど、空虚だ。と。
みんなの言う通りではあったが、みんなの言う通りの世界は面白くもなんともない。と。

私は自分の心の奥を見たような感覚になった。
自分の心で、普段蓋をして隠しているモヤモヤを開け放たれたような気分だった。
その裏返しを、どんでん返しを、でもどっちも本心なのを、全部肯定されたような気分になった。




私は言葉を信仰し過ぎかもしれない。でもいい。それが私が本を読んでいる理由のようなものだから。
とそんなことまで思考を到達させるこの本にはやっぱり、降参だ。


幸福感は売れてからも変わらず、春日はずっと楽しそうで若林はつまらなそうだった話とか、牡蠣とおじいさんの生きている意味の話とか、もっともっと書いといておきたいことはあるけど、とりあえずおわり。

明日、カバーニャのやつ買おう。