アイスクリームと獅子

音楽・本・映画・徒然

過保護のカホコ 第5話

過保護のカホコが私のツボを押しに押してきてしんどいので書きたい。

竹内涼真さんは今まで知らなかったんですけど、すごくいい演技をしますね、ほんと。
説得力のある演技をする。麦野初が何を感じているのかよく伝わってくる。

それとカホコのパパ役の時任三郎さん、とても好きなんです。海猿での演技を見てからとても。


ほんで何よりも脚本とストーリーの良さです。
ママとパパに守られて、1人じゃ何にもできないカホコが、いろいろとワケアリそうな麦野くんという男の子に出会い、変わっていく。
っていうめちゃくちゃありがち!ありがちなストーリー!
なのになんでこんなに面白いんだ!!

それはセリフがいちいち良かったり、キャラクターの表情や俳優さんの演技の良さ、みたいなものが全部バランスが良いからなんじゃないかなと思う。

で、先日の5話では、麦野くんのワケアリの、ワケについてようやく触れられました。
カホコは何にもわからず、ずばずばと人のデリケートな部分を突っ込んでいく。
だけどそこには何の悪気もない。ただただまっすぐ、「どうして?」「私が何かしてあげられることは?」という気持ちだけ。

大事に持っていたもう使えない絵の具を、麦野くんが川に投げ、母親に対する投げやりでやりきれない思いを吐露すると、カホコは川の中に服のまま入っていき、絵の具を探す。

私、こんなの初めて。みんなに仲良くしてほしいのに幸せになってほしいのに、何にもしてあげられないのが悔しいの。それって私が過保護だから?だったら、自分が過保護なのが本当に嫌になる。

胸にくるものがあった。自分のダメさに気づいて、塞ぎこむんじゃなくて、それがどれだけばかげていることだとしても行動するカホコ。

それを見て麦野くんこそ感じたのではないでしょうか。
「おれ、こんなのはじめて」
と。
自分のためにまっすぐに行動されていること。親に捨てられ施設に預けられた彼にとってそれは、受け入れ難くも、嬉しいことだったんじゃないかなぁ。

変わっていくのはカホコだけじゃなくて、麦野くんも、なんだね。
すごくテンプレ的な作品なのに、こんなにも胸を打たれる。

というしがない感想。
あー、終わってほしくないなっ!!

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これが私の好きなものです!
と、自信を持って言えるものがない。

お笑いも音楽もドラマも本ももちろん好きだけど、なんだろう、ゼリーの上澄みだけすくって飲んで、美味しい!って言ってるみたいな。
そこはゼリーじゃねぇぞ、ゼリーはもっと固形っぽいところだぞ、みたいな。

いや、わからないけど。
ちゃんとゼリー食べてるのかもしれないけど。
自分の「好き」に自信がないんです。

それと、好きになるのが怖いみたいなところある。
だって好きになっちゃったら、金かかるし、時間も取られるし。心も。
まぁ好きな時はそれで全然いいんだろうけど冷静になったらそんなの。私には抵抗がある。

だから解散したバンドが好きだったりするのかな。なんか関係するんだろうか。

その人が漏れる

大人って、基本的に職業の皮を被ってるじゃん。
わたしももうすぐで成人になるけど、それと大人になることとは、全然違う話。





わたしが見る大人は主に先生と、テレビに映る芸能人の人々、運転手、電車に乗る人、スーパーとかの店員、とか。

みんな、人間性なんかかけらも見えない。その人がどんな人なのかとか。人間らしさみたいなのとか、感情とか。見えなくて、別にそれにはなんの疑問も持たないし、ていうかそうじゃなきゃ困る。

いきなりテレビのドキュメンタリーでもないのに自分について語りだしたり、唐突に泣いたり笑ったり、されては困る。





だけど、芸能人がテレビの収録をするとき、先生が生徒たちに講義をするとき。たまに、数十分に一回くらい、ちらっと人間が見える、人がいる。

それがわたしはとても好きだ。
「あっ、今。」と思う。
職業というものをかぶってその役割を演じている大人たちの、ふとした表情や口調や仕草に、「その人」が見える。人間を感じる。





漏れ出してる何か。
いつそれを感じるのか、それが一体なんなのかはよくわからないけど、何かがその人から漏れ出していることは確かなんだろう。

完璧に職業を演じきれている大人と、たまに「その人」が見える大人。
わたしは断然、後者に惹かれる。
意図せずに、作らずに、ふっと人間が見える。
そういうものに、色気を感じているのだ。

忍びの国 感想

3回も見てしまいました。「君の名は。」の2回を超えた。2回目泣きました。
普通にとても良い映画だったなと思います。
軽めの文体です。


以下ネタバレ含みます








まず思ったのは、大野智が声だけで演じることのできる役者だということ。信雄(知念侑李)に迫るシーンが本当に怖かった。
「言いやがったな」以降の。感情と表情すっと消すの上手すぎて。


私ああいう無門(大野智)みたいなキャラクター凄く好きなんです。少年マンガのチート的キャラ。
絶対的な強さを持ってんのにわざわざ出さない、出すときの動機は金という狂気っぷり、戦いの余裕、絶対に負けないでしょっていう信頼感。
江戸川コナンはなにやっても死なないよね、みたいなやつ。

ただそれが、少年マンガと違うのは、普通無門みたいなのは敵キャラクターとして出てきて、主人公を煩わせつつ最終的には負けるタイプのキャラだってこと。
無門には志を共に戦ってくれる仲間もいないし、戦う理由は金っていうなんとも…な理由だし。
だけどこの映画では無門が勝つし、私たちは知らず知らず悪役側を応援してしまっている。
これがこの映画のめちゃくちゃ面白いところなんじゃないのかと。思うわけです。



で、1番の見どころ、下山平兵衛(鈴木亮平)との川。この川のために3回も観に行ったようなもん。この川だけにお金払える。とにかくすごい。
アクション好きにはたまらないし、これも単なるかっこいい戦闘シーンってわけじゃない。
あそこで無門と平兵衛は心を通じ合わすわけで。その無門の繊細な変化が本当素晴らしく表現されてた。一言もセリフないのに、彼らの気持ちがものすごい伝わってしんどかった。

剣の取り合い。無門が平兵衛からクナイを奪って構えた時のあの表情、狼にもあんな目はできないでしょ。
平兵衛が背中にあるもう1つの剣でどうにかしようとした時、一瞬無門の目が映る。あの目。あの目を私は忘れないです。もはやあの目を見るためだけに金払える。
平兵衛の気持ちが通じたのは間違いなく、それに対して無門は「生半可な気持ちでこいつを殺してはいけない」と思ったのだろうか…。「とどめをさすぞ」というような、「楽にしてやる」とも取れそうな、いやどんな言葉にも表すことのできない"言葉"を、あの人は目で表現していた。
目だけで演じられる役者でもあるんだな…。



以下は映画を観てない方は読まないほうが良いかと。







で、ラスト。びっくりしたよほんとに。
お国が無門を守ろうとしたが故に、守ろうとしたが故に(大事なので二回言った)、下忍たちに殺されてしまう。
無門の叫び声。痛い。こっちの心まで痛い。
小さな時に買われてきたから名前などないと言って涙する無門。
いろんなことを抱え込んで抑えてきたと無門のことを言うのは演じた大野さんだけど、ほんとにその通りだなと思います。そこらへんは原作のほうに文章で書いてあるけど。

そしてこの緊迫のシーンを目前にしていたはずの下忍たちは、こともあろうに子茄子を奪い合おうとする。
そして気づく。
「わしは、なんと言う馬鹿者じゃ…」
冒頭の下山平兵衛と同じセリフを繰り返す。自我の目覚め、人間としての目覚め。ここが今作のキモだと私は思う。



そして実は、これを観ている私たちも、ここでやっと気づくんじゃないのか?と。忍びたちの異常さに。忍びたちが憎むべき悪役キャラだということに。
憎みきれない部分もあるけどね。そういうところが面白いです。勧善懲悪とは言えようもないストーリーの展開の仕方に脱帽です。



なにをもって人間となり、なにを大事にして生きるのかというテーマを、エンタメの中にまさに土遁の術のように潜ませた製作陣に拍手を送りたい。

神様のボート

早く死んでしまいたい。
だけど自分から命を絶つなんてしたくないし、生きているのなら何かの役に立ちたい。


葉子は、生きているのならあの人を思い浮かべて待つ以外の何も望んではいなかった。
「骨ごと溶けるような恋」をしたあの人を。


共感など一度もなく、淡々と綺麗な文章を追い、草子の成長を追い、物語は終わった。


あの終わり方で良かったと私は思う。
じゃなきゃあの静かな雰囲気の中の確かな狂気を、私も持て余してしまう気がするから。

ウエハースの椅子

書評、などと言ってはいるけどそんな大したものじゃない。
そのうちそう呼べるものになりたいという希望的なもので、便宜的に書評と言っているだけ。
ただただ、読んだ本の記録をしたいだけ。



というわけでお初の記事は、江國香織の「ウエハースの椅子」について。

私はこういう本は好きだ。
こういう本、というのは、さしてストーリー性がなく、主人公の緩やかな生活を洗練された文で綴っていくような。

それが死の匂いをさせているとなお良い。そこには美しさがある。そしてこの本は、死の匂いをさせている。



序盤から死について主人公が思考する場面がいくつもある。父や母、あるいは買っていた犬のジュリアン、あるいはY画伯。

主人公は38歳の女。恋人がいる。職業は画家。恋人は彼女を愛しているし、彼女も恋人を愛している。
妹とは別々に暮らすようになった今でも仲良く、たまに電話をする。

彼女は自分の人生を、「過不足のない人生」だと思うと同時に、そこに漠然とした、それでいてとてつもなく深く大きな寂しさを感じている。

それ以上でもそれ以下でもない生活が、詩的な言葉と比喩で延々と綴られていく。それを憂鬱だと感じるか、退屈だと感じるか、それとも美しいと感じるか。



私は憂鬱だとも退屈だとも美しいとも思った。
おそらく私の中にも、絶望と親しい私がいる。それ以上でもそれ以下でもない。何かこれという理由があって寂しいわけじゃない。

彼女の周りに何か事件が起こることはない。今までも、これからも、彼女は恋人に愛され、好きな絵を描いて暮らしていく。

絶望と親しくする彼女を、きっと誰も救うことはできないんだろう。
それが彼女にとって満たされていて、過不足のない状態だから。

はじめに

ここも見てね→このブログについて - アイスクリームと獅子

ブログを始めるのは3回目です。

物心ついた時から文章をずっと書いていて、書くために生きて、生きるために書く、みたいな風に当たり前になっています。

なのですが最近、あんまり自分の思うように書けなくなっていて。そんな時にあえて始めてみるブログです。

書く感覚を取り戻せたらいいなと思いつつ、自分の記録と、好きなことについてと、今までしたことのない書評とか、映画評とかもしたいな。
まぁ評とかかっこいい言い方するだけで感想になりそうな予感がするけど。

つまるところ、書きたいときに書きたいように表現をしたいだけです。それだけ。

目指せ現代の清少納言(大きい)。