アイスクリームと獅子

ノーライフ、ノーエブリシン!

カテゴリ一覧

*これは記事ではありません







はじめに



徒想
徒然草と随想から取った私の造語です。日々の考えていることについて節操もなく書き連ねています。
要は所謂雑記。


読んだ本の感想とか、読後の感覚とかを書いています。ネタバレはないと思います。


ドラマ
見たドラマの感想です。だいたい雑感で、メモみたいな感じで思ったことを書いています。ネタバレしてます。


音楽
その時好きな音楽について書いています。だいたい一曲について好きなところとかなんで好きなのかとか書いています。


映画
映画館で観た映画の感想を書いています。ネタバレしかしてません。たまにテレビとかで観たもので面白いものも書いています。


お笑い
お笑いの番組とかライブの感想です。


日記
日記です。その日あったことと感じたことを書いています。

混沌

「えっ、そんな考えてんの?それ生きづらくない?」と、半笑いで言われたのは何度になるだろうか。そのたびにちゃんと、「生きづらい人は生きちゃいけないの?」と自分の気持ちを言えたら自分のことを救うことができただろうか。

この世に生まれて生きづらいって思う人間は、やっぱり楽しく生きることなんてできないのだろうかと思ったり思わなかったりする。
私のヒーローは、ネガティブなまま楽しく生きていかなきゃいけないと言った。
私は今までのように憂鬱な気分に襲われようと虚無に殴られようと死にたいなんて思ったりしない。
ただ楽しく生きて幸せになりたいだけだ。

生きていくことに意味はないという諦観が、世の中が苦しいのは仕方ないっていう諦観が、自分は誰にもなれないという諦観が、万物は斉同だというある種の諦観が、自分を守るすべのように思えていたはずだった。
でも、どうやらこの諦観は就活とかそういうものには邪魔らしい。

自分の価値観で生きていきたいとか自分に嘘をつきたくないとか生意気なことを言っているが、それが大切だと気付いてから一歩も前に進めていないどころか、後ろに下がっていくような感覚がしている。

自分の価値観で生きようとすればするほど自分の価値観がわからなくなって行く。自分の感情がわからなくなってゆく。自分が何を考えているのかわからなくなってゆく。

混沌こそ道だと昔の誰かは言っていたけど、本当にそうなのだろうか。

最近聴いた音楽2019-2

記憶ってわりと音楽と共にあることが多いと思う。
写真のアルバムのように振り返るような感覚。


藤原さくら -はんぶんこ


首都医校のCMで聞いてめっちゃ良いじゃん…ってなったんだけど調べたら2017年のCMらしくて出てこなかったんだけど。タイムスリップでもしてたんかな。





Su凸ko D凹koi -ゆうと


なんか悔しいけど最後まで聞いちゃったんですよね。ガールズバンドってこういうタイプのいないなあと思って。めちゃ可愛い系か、可愛さ捨てたい系がよくあるじゃないですか。でもリアルの女ってそういうのばっかじゃないよね、っていう話。





東郷清丸 -サンキスト


「明日が来れば今日が終わる」という歌詞は、当たり前のことなんだけど、確かにそこに救いを感じ取ろうとする切実な思いがあると思う。





せめて一花の祝福を -HaTa


この語彙のすごさよ…。奇をてらってる言葉のオンパレードだと批判する人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。自分の中に確かにこれだけの語彙を持っていて、言葉のイメージを確実に把握している人じゃないとこれだけの歌詞を書くことはできないと思う。
「リキュールに沈みゆくアトリエ」なんてもう詩じゃん…。
曲もすごく良くてサビ行く前の不穏に動く感じとサビの軽やかにどこか怪しく進んでゆく感じがすごく好き。





ズーカラデル -漂流劇団


このバンドが来なかったら世界は嘘だ。「嫌いなあんたがいつか幸せになれますように」なんて歌える人なかなかいないんじゃないかな。





カラーボトル -10年20年


説明不要。





Helsinki Lambda Club -Lost in the Supermarket


生の気だるさと、単純にいろんなものがここにくれば買えるっていうただそれだけの理由でスーパーマーケットにいる客、もしくは金を稼ぐためだけにスーパーで働く人、という組み合わせを歌にする面白さ。





サカナクション -忘れられないの


CMソング好きなんでしょうね私。サカナクションの世界観っていう、曖昧なことを言ってしまうがそれが好き。





眉村ちあき -大丈夫


ドリームエンタメレディオこと、佐久間宣行のANN1回目で流していて聴いた曲で、も、歌詞がなんといっても素晴らしく良い。
大丈夫って連呼する歌詞に弱いのかもしれない。MOROHAのGOLDを思い出した。

one is too many?

一つでは多すぎる、という言葉がある。
一つのものだけに集中していては、視野が狭くなり、それだけしか見られない、という啓蒙である。

しかし私は思う。

興味の幅は平均より広いと思っている。

文学、言語学、音楽、お笑い、ギター、音響、ラジオ、短歌、本、哲学、経済学、心理学、法学、政治、文化、海外、論理学、英語、福祉、医療、教育、など、など…。

私は文学部である。文系である。
しかしこの2年間いろいろな学部学科の授業を取ってきた。
いろんなことに興味があるからいろんなことをやってみたいと思う。

人は言う。
若いうちは何でもできるんだから何でもやってみるものだ。今のうちから興味の幅を狭めてはいけないと。

しかし本当にそうなのだろうか。

あれこれやりたいからといろんなことに興味を示し、結局どれも中途半端になっている。
挙句自分のやりたいことがどれなのか全くわからない。

一つでは多すぎる?
否、一つのことを集中してできる人が私は羨ましくてたまらない。

索莫

何がしたいのかわからなくて辛い。

オードリーの武道館が終わってからじわじわと辛くなっているので、本当に私はオードリーの武道館のためにこの1年間頑張ってこられた、生きてこられたんだな、という証拠になってしまっている。

新しく何か、生きる理由的なものを探さないといけないなぁ、というこれはもう、ニヒリズムに陥ってしまってるのだろうか。
なんて別によくて、私はもうニーチェニヒリズムもどうでもいいし、老荘思想もぶっちゃけどうでもいい。

とりあえず自分が今楽しければなんでもいい、というのは実は老荘思想が言っていることらしいが。

どうすれば今が楽しくなるんだろう。
あと2年間しかなくなってしまった大学生活と、その後に待っている実社会の生活。
新明解国語辞典には「実社会」の項に、不条理がどうとか書いてあるんですよ。

最近は文学も楽しくない。
多分未来を考えすぎている。

目の前にあることを一つ一つ取り組むことが大事だと、頭では理解しているし実感としてちゃんと経験したこともあるのに、今はそれができない

トレンチコート

令和、いいですね。かっこよくて。凛としている感じがあって私は好きです。発表と同時に、「おお、ええやんけ」と謎の上から目線でしたがどうしても一瞬リョウワと読んでしまう。



人の前で立って話すのってめっちゃ難しいですね。
小4と中2で学級委員やってたので、クラスの会議とかでは司会やったり30人程度の人間を取りまとめたりしていたはずなのに、あの頃の面影は全くなかった。
20人足らずの人の前で立って会を仕切るだけでめちゃめちゃ疲れたんですけど。なにこれ。久々すぎたんでしょうか。
いや、張り切ってたとか全くない。
むしろグダグダ〜でいいや〜みたいな自然体で行こうと思ってやってた。実際に振る舞いはそんな感じになって、先輩方もあたたかく笑って見守ってくださっていたのだけども、終わってから振り返ると思ったよりずっと難しかった!
司会ってこんなに難しいんですね。いつも聞いてるだけでなんも考えてなかったけどやってる人みんなすげえわ、代表やるってそれだけでめちゃめちゃすごいことだ。
代表の器じゃないなと一発目からネガティブモードになってしまったのであった。
まあ何事もエクスペリエンスなのでいいんだけど。疲れた。




帰り道に音楽聴こ、とおもってポケットを探ったらイヤホンが消えてた。イヤホンなくした。最悪か?
うわ〜と思いながら駅前に着くと、そこら中にいる女がみんなベージュのトレンチコート着てて見てるだけで吐き気がしてきた。


世界が単純に生きづらすぎる。
そういう話?笑い。

無題

ブログに対するモチベーションが下がっている。
自己表現欲求を常に抑えきれず持て余しているような生活をずっと続けていた。嫌なことが多いから。最近、その欲求が、減ってるわけではないんだが、なんか、変化しているような気がする。全世界に発信、なんていうのは傲慢すぎるが、実のところ全世界に発信してしまっていることには間違いはないのだからそう考えてしまうのは仕方ない。全世界に発信している意味がわからなくなってきた。はじめは、私のようなマイノリティが生きるすべとしての自己表現だったのだが、最近はそういう理由も目的もなくなってしまった。なんで私は、顔も名前も知らない人間に対して自分の気持ちを文章にしているのだろうか。ということを考えることさえ傲慢なのはわかっているのだが、モチベーションが下がっている理由はこの辺にあると思ってしまうので仕方ない。映画とか本とか小説とかお笑いとか、カルチャー的なものの感想を書くのも上手くなりたかったけど私の器じゃなかったと気づいた。芸能人の名前とか呼び捨てするのに躊躇う。そもそも知識が圧倒的にない。良いものを良いとただ言えばいいのにそれさえできない自分に嫌気がさす。誰かを傷つけてしまうかもしれない、という気持ちが頭から離れない。それ自体はいいことかもしれないし、表現するなら誰かを絶対に誰かを傷つけてしまうのは真実なのだが、それを考えてしまっては自分が思った通りのことを言葉にできないでいる。私の短歌は誰かを傷つけてしまうかもしれないし、このブログも誰かを傷つけているかもしれない、かもしれないじゃなくて傷つけている。間違いない。誰も傷つけない笑い、という言い方を最近よく目にするけど、いつも違和感を感じてしまう。誰も傷つけない表現などこの世に存在するのだろうか。そこにあるのは加害者意識の欠如と無自覚しか残らないのではないか、ということを考えてしまう。別に誰かを傷つけるような笑いを肯定するとかそういう話ではなくて。話を戻すとわざわざ全世界に向けて発信する意味がわからなくなってきた。というのが理由なんだ。でも結局こうしてまた記事を書いて私はこれを公開する。なんでだろう。なんでなんだろう。自分のために書くというのならルーズリーフでいいじゃないか。非公開ブログでいいじゃないか。なのになんで私は公開しているんだろう。わからない。