アイスクリームと獅子

美しいものが好きです

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はじめに



徒想
徒然草と随想から取った私の造語です。日々の考えていることについて節操もなく書き連ねています。



読んだ本の感想とか、読後の感覚とかを書いています。ネタバレはないと思います。


ドラマ
見たドラマの感想です。だいたい雑感で、メモみたいな感じで思ったことを書いています。ネタバレしてます。


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その時好きな音楽について書いています。だいたい一曲について好きなところとかなんで好きなのかとか書いています。


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映画館で観た映画の感想を書いています。ネタバレしかしてません。たまにテレビとかで観たもので面白いものも書いています。


お笑い
お笑いの番組とかライブの感想です。


日記
日記です。その日あったことと感じたことを書いています。

リリイ・シュシュのすべて

もう一度観よう。
そう思った。
けど、まだ観ていない。


ツタヤで借りてきた「リリイ・シュシュのすべて」は、今はツタヤの元あった位置に戻っているだろう。



白状しよう。
私は、フィリアが主人公で、青猫が星野だと気づくことができなかった。
だからか、観終わっても「意味がわからない」と思った。
「ちゃんと観ていたのか」と責められれば、私はそれを甘んじて受けるしかないだろう。



でも、もしもそれがわかったところで、この話がわかっただろうか?


感想を検索して、ようやくフィリアと青猫が一致した。それから暗くて重くて嫌な気分になる映画、という評価を受けていること。でも、私はそうは思わなかった。
本当にこの作品は面白くないのだろうか。本当にこの作品に救いはないのだろうか。

ただ、中学生の時にこの映画を観なくてよかったなとは思った。




もう一度、すぐに観よう、観たい、そう思った。そう思っただけで、結局観ずにツタヤに返しに行った。
観られなかったのだ。




でも私は、きっと、何年後かにふと、「リリイ・シュシュのすべて」を観ようと思い立つだろう。その時はきっと、すぐにでも借りて実際に観る。



ただただ、今では大活躍していると言える役者たちの、若かりし時の圧巻の演技に賛辞で胸が溢れた。
淡々と進んで行く、二時間超の長い映画を、最後まで飽きずに観られたのは、彼らの演技力だと思う。
ぼそぼそと喋る主人公、あどけなさを感じさせる津田。
リアルだった。



今言えるのはそれだけだ。

dearly beloved

私はその夜、泣きたかったのだ。




未だに苦しいのは消えない、消せない。
戦争がなくならないように、いじめはなくならないように、苦しみは消えない。
日が沈んで登るように、終わらない。




テレビの中で起きている出来事は、どこかの誰かのリアルだけど、テレビの向こう側としか感じることができない。
おんなじようなことがありすぎて、悲しいニュースも悲しめない。
たとえリアルを感じることができても、それに対して何もすることはできない。
自分にとって、毎日のように乗る満員電車がリアル。
人身事故があっても、自分が遅刻しないことの方が重要。
人が目の前で交通事故に遭っても、さっき切った切り傷の方が痛い。


それが悪いって言いたいんじゃない。
そうじゃないんだけど……。


そんなことを考えては、夜中に落ち着かなくなって眠れない。疲れているときほど思考だけは動き回って、考えないようにとスマホを眺めて、さらに眠れない。







22時、ディズニーランドを出て行くときから、余韻と高揚感を引いてください。
そしたら何が残る?
そんな感じ。
いつまでもここにあってほしかったものが、時間の中で消えていくの。
自分じゃどうしようもできない。










このまえ、またこういう感覚に襲われた。
だけど、スマホをいじってもどうにもならないことをわかっていじるのが嫌で、ふと、ある曲を聴こう、と思った。

「dearly beloved」という曲。キングダムハーツの、スタート画面で流れる曲だ。歌詞はない。
私はこの曲を聴くたびに心を鷲掴みにされる。切なさとか寂しさとか、そういう稚拙な言い回しはよして、とにかく心が痛くなる。
だけど同時に、この曲を聴くと落ち着く。


だから、この曲を聴いて落ち着けるはずだって思った。実際、その夜に聴いて、それでざわついた心は落ち着いた。
そして、途中から私は泣いた。
心地よい涙だった。


高校生の時、何度も夜に泣いて、泣いて、なんの理由もなく、ただただ苦しくて泣いていた。理由がわからなくて混乱した。



私はその夜、泣きたかったのだ。
その曲は、私が泣くのを手伝ってくれたのだと思う。別に泣いても良いよって、その優しさを信じきってしまうことの安心感。


いろんなことを考えすぎて、ひとりぼっちのような気がして、永遠にあって欲しかったものをなくして、それが夜に集まって、勝手に苦しくなる。




今は、その逃げ道を肯定できる。
そんな夜がまた来たら、dearly belovedを聴こう。

映画 恋は雨上がりのように 感想



なにせ音楽が良い。


音楽を聴くためにもう一度観に行ってもいいくらい(サウンドトラックを買えばいいのでは)。


オープニングで現れる「神聖かまってちゃん」「忘れらんねぇよ」「スカート」といったそうそうたるメンバーに納得。
ここの曲はポルカドットスティングレイ。


そしてこのオープニングがまた良い。
風を切るように走る主人公。
綺麗なフォントと縦書きのクレジット。その周りに現れては消える白い波紋。
めちゃくちゃ好みの演出だった。





ただの年の差恋愛ものじゃなかった。
あらゆる光りを集めて詰め込んだものを「みてごらん」って言われたような優しい作品。
コメディ要素も程よくて飽きなかった。

恋、片思い、夢、友情、生き様、家族愛、部活動、夏祭り、浴衣、デート。






ただ、だから、それぞれの密度はあんまり高くない。
もっと、なぜあきらが店長を好きになったのかとか、みずきの気持ちとか、そういうものがもっともっと繊細に描かれていたら、もっとぐっと来ただろうなぁって思った。
でもそれをしたら、いろんなものを詰め込んだバランスが悪くなっちゃうかな。




でも、だから、観た人の数だけ響くものがある作品だと思った。

映画 アヒルと鴨のコインロッカー 雑感

金で買った広辞苑はいらない。奪った広辞苑が欲しいんだ。(河崎)


謎の言葉から始まる本作品。まったくもって意味不明だし、なぜ広辞苑……。しかも


これ広辞苑じゃない!広辞林だよ!(椎名)

なんでだよ!!
こだわりを見せた割に大事なところでミスる河崎。


ここまで予告編で見て、面白そうだなぁ、と。そいで、作品を観た後にもう一度予告編観たら、そのなんたる秀逸さよ……。完全に騙された。



予告編の謎が全て解けて、そりゃもちろん解けないと本編の意味がありはしないんだけど、それにしても大変説得力のあるものでした。




なぜ広辞苑(しかも奪った)が欲しいのか、なぜ広辞苑と広辞林とを間違えたのか、なぜ椎名は本屋襲撃に巻き込まれるのか……。



全部の謎が解けたときのすっきりした気持ちと、その裏にある悲しみと切なさが一気に襲いかかる後半。


大変楽しみました。よかった。


以下ネタバレ










瑛太の演技は見るたびすごいと思うけど、やっぱりすごい……。
河崎瑛太と、ドルジ瑛太の差よ……。それでいて同一人物であることの説得力の高さ。なんの違和感もなかった。


車を運転しながら号哭するシーンめっちゃ好き……。
ドルジが河崎になるまでにどれだけ努力したんだろうって思うと胸が痛い。
きっと河崎がやろうとしたことをかなえてあげたかったんだろうな。あれだけ暴力は良くないって言っていたドルジが、河崎になってまであんなにむごいことをしたのは。
最後に犬を守ろうとしたドルジはやっぱりドルジなんだよ。




それから、松田龍平もすごい好きだった……。琴美を助けるシーン超かっこいい。それから琴美の死の後に、ドルジに日本語を教える河崎。アクセントが大事なんだよ。と怒りながら教えるのが。

あと、岡田将生ね。若っかー!w

以上。

米澤穂信「いまさら翼といわれても」

ようやく読んだ。古典部最新作。
若干のネタバレ。
「遠回りする雛」と同じように、短編が何作かまとまっている。
読んでいればすぐにわかるくらい、テーマははっきりしている。時の流れだ。


著者は「遠回りする雛」のあとがきで、小説の中で時間を進めることと和解できた、と書いていた。そして「ふたりの距離の概算」からは、彼らは二年生となる。小説の中なのだから、彼らはいつまでも一年生でも良かったけれど、二年生になってもらうことを選んだのだ。


そして、それに続く今作は、二年生になった彼らの過去と今、時の流れが描かれる。
省エネを捨てゆく折木。
漫研をやめ、夢を追いかける決心をする摩耶花。
勝ち負けにこだわらなくなり、本書では詳しく描かれないが変わっていく里志。
そして、もっとも変化を迫られるのがえるだろう。遠回りする雛の最後にえるの決意が描かれることに対比させるように、本書もえるの変化で終わる。

ここで描かれる四人四様の変化。それを人は成長と呼ぶのだろうか。



しかし、折木が省エネをモットーとするきっかけの話をすると、えるは、「お話の中の折木さんと、今の折木さん。そんなに変わっていないんじゃないか」と言う。
この、折木が省エネをモットーにするようになったのが小学校高学年、というのがとても興味深い。そしてどうしようもなくなって姉に話すことも。自身で「子供が拗ねて、拗ねてるうちに引っ込みがつかなくなっただけだ」と評することも。それほどに少年折木は悩んでいたということが見える。


私は自分を重ねてしまった。小学生という幼い時期に気づいてしまった嫌な発見は、尾を引く。変わらざるを得なくなるのだ。それ以外に方法がわからないから。そしてそれはしばらくの不変化ももたらす。
自分が変わり、そしてそれを引きずっていると自分では思っていても、誰かが見て同じ評価をするとは限らない。そこまでで描かれてきた折木の中学生時代の話と、これまでの古典部作品の全てで、折木は「やらなくてもいいことをやっている」。折木は、バカにされるのが嫌で変わらざるを得なかった。しかし、本当は不器用で優しくて誰かのために動いてしまう人物であるのだ。そしてそれは今作、特に丁寧に描かれた。
自分を守るためにやっていたことが、いつのまにかやめている。自分を縛っていたものから、少しずつ解放されて行く。高2になった折木が、まさにえるのために「やらなくてもいいことをやる」ように。


それを成長といってしまえば簡単だ。
ところがそんなものは、当事者ではない私たちが、彼らを見ているだけだから言えることであって、彼らにとってはそれこそが「今の自分」というものだろう。
自分が変化することを自覚するとき、「本当にこれでいいのだろうか」と迷わないはずはない。折木がえるに言われた言葉を笑い飛ばせなかったように。摩耶花が、漫研をやめることを逡巡したように。



ただ、えるの場合はまた違う。
えるは、今まで自由に物事を決められるような身分ではなく、解放も何も望んでいなかったはずだった。しかし急に「今から自由です。これからは自分で決めなさい」と言われるのである。時間の流れの中で変化して行く他の三人とは明らかに違う。
「遠回りする雛」の最後に、自分の決められた将来のために理系を選択した彼女には、自分が自分だけの理由で何かを選択することはなかったはずだ。

折木はそれを、少しは理解していて、でもまるで理解できてはいなくて、推測で他人の領域に入ることを傲慢だと思いながら、えるの扉を開こうとする。
しかし最後まで扉は開かれない。何もしてやれない折木、自分でどうにもできない問題を抱えてしまったえる。やるせない思いを吐露するままに、本書は終わる。


この後味の悪さよ。
私は古典部シリーズを読むとき、自分がそこにいるような感覚に陥る。たいていは、自分が折木の位置にいるような感覚だ。折木が推理をするときは、他の三人の位置。
そしてここでは無論、折木の位置にいた。
友人が何かを抱え込んでいるときに、何もすることができない。自分の力量や技術の問題ではないにしても、己の無力さ、歯がゆさを感じずにはいられない。その後味の悪さをもろにかぶって本を閉じた。


青春小説の典型としては、登場人物がなんらかの事件をきっかけに、葛藤の末に決心や判断をしながら変化し、それを受け止めて成長、めでたし、というものだと思う。
ところが本書は、「なんらかの事件」の段階で終了する。えると折木はまさに葛藤真っ最中である。

だが、そこが古典部シリーズのリアリティだと思う。私には、彼ら四人が本当にこの世のどこかにいるのではないかという気がしてならない。
人生が、そう簡単に葛藤を打ち破って、ある日突然晴れやかな気分、となるはずはない。まさに今、変化の途中にいて、いつそれが終わるともわからない、本当に自分が変わるのかもわからない、それが生というものの難しさなのだから。


久しく私はこの気まずい読後感を味わうことがなかった。またそのような読書体験ができてよかったと思う。この、本を閉じる時の「しんどいなぁ」という感覚が逆説的に、生きようと思えることに他ならないから。







追記:私は里志がとてつもなく好きなので、彼の話がなかったのが残念ではあった。やらなかったしやらないけど、里志だけを追って感想を書けるくらい好きなのです。「クドリャフカの順番」が一番好きだし、「手作りチョコレート事件」は最高オブ最高。そんなわけなので、少し残念ではあったが、登場する時のセリフがもれなく好きだ。
「箱の中の欠落」で遠回りに折木にものを頼んだり、卒業制作に小細工をしたり、折木の読書感想文を、「蒙が啓かれたね」などと言ったり、「わー!里志!!好き!!」である。それだけを特記して追記するくらい好きである。
里志の今後が描かれることを楽しみにしたい。

あと、摩耶花のこと。彼女の気遣いというか人となりに感動してしまう。河内先輩が出てくるんだけど、それだけで胸熱だった。クドリャフカが好きな理由はここにもあって、河内先輩の言ってること、すごく共感できるのだ。その先輩が再び登場して、放つ言葉のこれまた強いこと。

レモンのミルクレープ

今日、なんだか疲れてしまって、5限の授業を休もうか迷った。4限は空きコマだった。
授業をなんとなく休むことに後ろめたさがあり、悩んだ末、「ケーキでも食べてがんばろう」と思ったのだが、学校周辺にそんな気の利いたものはなく、めんどくさくなって、帰ろうと駅まで20分の道を歩いた。


途中、「今日はウォークマンを持ってきたんだった」と思い出し、イヤホンを耳につっこんで再生ボタンを押したが、3秒くらいで停止してイヤホンを外した。そういう気分じゃなかった。



もうすぐ駅に着くというときに、ドトールのレモンのミルクレープが気になっていたことを思い出した。
「でも、まだやってるのか際どいな。よし、もしやってなかったらほんとに帰ろう」と思って、駅前のドトールを確認した。


ポスターはまだレモンのミルクレープの宣伝をしていた。
私は店の中に入った。
「す、涼しい」とそれだけで少し元気になった。



レモンのミルクレープは期待通りの味で、美味しかった。甘さと酸っぱさが程よくて、気分を楽にしてくれた。レモンとミルクレープの組み合わせを考えた人は天才だな!と思った。


ふと、一口食べるたびに心の中できちんと「おいしい」と言っていることに気づいた。そういえば、最近の私は何かものを食べると、いつもきちんと心で美味しいと感じている。誰かと一緒にものを食べた時は、口に出してさえいる。



他人からしたら、当たり前と思うことだろうと思う。
だが、つまりそれは、以前の私は何かものを食べて心できちんと美味しいと感じていなかったということだ。そんな当たり前のことができていないことに、美味しいと思えるようになるまで気づかなかった。

以前の私は、誰かがものを食べて「おいしい」と言っている言葉を聞いて、「はぁ、たしかに、まずくはない。おいしい」と鈍い感覚でいた。誰も言わなければ何も感じずに口にものを運んでいた。今書いていてとても恐ろしい。


自分の感情が薄かったりわからなかったりしていることの自覚はあった。だが美味しいと感じていなかったことには驚いた。そんな感覚までも弱っていたのか。



残りわずかになったケーキを食べるのがいつも下手で、今日も皿の上を散らかしてしまったが、私はそれを見ておかしくて少し笑えた。そんな自分を愛そうと思った。
レモンのミルクレープくらいで大げさだが、本当にそう思った。



お店を出ると、また20分かけて学校へ戻った。
なんだか泣きそうだった。
自分の感覚を大切にできるようになったことが嬉しかった。今まで自分をないがしろにしすぎていたんだ。私はものを美味しく感じることができるし何かに苛立ちを感じることができるし何かに嬉しさも悲しさも感じることができる。当たり前のことが私にとっては当たり前じゃなかった。
当たり前じゃないことが私には当たり前で苦しかった。でももう苦しまないでいいんだ。




同じことで、私は今、明日も生きていこうと思える。ずっと自分が生きていることがわからなかった。当たり前のようにみんながしていて、なんの疑問も持っていないことを、私はようやく実感できた。それはきっと、自覚せずに明日も生きていける人よりもずっと強いものだろう。




明日も生きていこう。