アイスクリームと獅子

ノーライフ、ノーエブリシン!

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*これは記事ではありません







はじめに



徒想
徒然草と随想から取った私の造語です。日々の考えていることについて節操もなく書き連ねています。
要は所謂雑記。


読んだ本の感想とか、読後の感覚とかを書いています。ネタバレはないと思います。


ドラマ
見たドラマの感想です。だいたい雑感で、メモみたいな感じで思ったことを書いています。ネタバレしてます。


音楽
その時好きな音楽について書いています。だいたい一曲について好きなところとかなんで好きなのかとか書いています。


映画
映画館で観た映画の感想を書いています。ネタバレしかしてません。たまにテレビとかで観たもので面白いものも書いています。


お笑い
お笑いの番組とかライブの感想です。


日記
日記です。その日あったことと感じたことを書いています。

Step

気が合う人が少ないのは、私自身のせいではなくて世界のせいだと思っている。
世の中はあんまり考えない人で溢れているから。

私が考える性格なことも、それが少数派であることも、自分の努力でどうにかなった話ではないし、むしろ多数派の人間の無努力によって成り立っちゃってるとさえ言えると思う。

でも、よく考えてみると実は私は、むしろ気が合う人が多い側の人間なのではないか?と思ったりもする。

だってそうじゃない?
対話ができる人とか、定期的に卒業しても会える人とかってこんなにいるんだろうか。

恵まれてる。
感謝だ。
なんなら私に恋人ができないのはこのせいなのでは?というくらい恵まれてしまっている。

もしかしてそれは、私が人間関係を努力して継続できていることの証になるのではないだろうか。
自分は人間関係がとても下手だと思っていたけど、それは過小評価なのではないか。
だってLINE一本入れれば、多分私とみんな遊んでくれるだろうから。

っていうね。


私は気の合う人が少ないのではなくて単純に友達が少ないタイプの人間なだけだな。
気の合う人としか遊べないんだろうね、要は。
友達が多い人を見て、すごく楽しそうだなって羨ましくなっていただけなんだろう。
隣の芝生は青い。



だけど。
さらに逆接を重ねる。


たしかに大学三年にもなって、本当に高校の時の友達としょっちゅう遊びに行ってるなんて思いもしなかった。
でもこれがこれから先も続くか?ということを考える。


こんな言い方したらどうかと思うけど、私が高校の時の友達と会えるのは、お互いが大学で気の合う友達に会えなかったからっていう理由が1つあるんだろう。

社会人になって気の合う人に会えるかは知らないけど、でも、きっと休日も今以上に合わなくなったりしていくだろう。


高校の時、会う理由を作らないと会えなくなるのが悲しかった。
違う。ヌルすぎる。
会えない理由が増えていくのだ。


タイミングの問題だ。


もちろん、努力をすればきっと会える確率は上がるだろう。
でもそれは双方向の努力が不可欠で、私だけがしていても意味はない。
そしてその努力などというものをしなくなっても、私は相手を責める権利はない。
権利とかそういう概念の世界でもない。
そういうものだと諦めるしかない。
なんなら私が努力をいつ放棄するかさえわからない。
全てはタイミングなのだ。



仕方ないことだと思う。
仕方ないことなんかひとつもないのに。


そんなことを思っていたから、羊文学のStepを聴いて泣いてしまった。

いろんなことを仕方ないからと
笑ってゆけるようになった

君はさよならも
言わずに行くだろう

きっともう2度と会うこともないけど
仕方ないよねと笑ってゆけるようになるだろう

あまりに私の心情に添い過ぎているぞ。

Hitsujibungaku "Step"(Official Music Video) - YouTube

明日から

明日からまた学校が始まる。
ブログを書きたいのに、何をわざわざ全世界に公開する価値があるだろうかとかいう無意味なことを考えてしまって記事を書くことができない。
私は私のためにブログを書いてるんだろうが!
もっとなんか、軽い気持ちで何事もやっていきたいよ。


履修を組んだら4コマだけになってしまって、もし一年生の時の私がこれをみたらどう思うんだろうかって感じだ。お前大学に何しに来たんだって思うんだろうなぁ。

なってしまって、なんて不可抗力のような言い方をしたけれど、自分で4コマにした。必要のない単位はとらないと自分で決めた。これだけでも、来年卒論と演習だけ取れば卒業はできる。過去の自分の頑張りに感謝だ。

「お前から文学なんてどうでもいいなんていう言葉が出るなんて〜!!」と高校の友達に言われた。私は爆笑した。確かにな。


文学がやりたくて古典がやりたくてちゃんと勉強したくて大学に来た。一年生の自分は自分が思っていた通り、ちゃんと勉強できる学校に来れてよかったと本当に思っていました。
勉強するためにこの大学に決めたのになあ。
最寄りはどこなの?と聞かれて答えると、「遊び放題じゃん!」って言われるような場所にあるくせに、全然みんな遊びに行かないようなところだ。
かくいう私もたまにタワレコとライブハウスに行くだけで全然詳しくない。



文学がどうでもよくなったのは一体何故なんだろうってずっと思ってるんだけどもうわからない。
本当にどうでもいいのかもちょっと定かではない。
だってだったらわざわざ自主ゼミみたいなところに入って続けてる意味がわからない。
自分で自分のことがわからないなあって本当に最近よく思う。
自分に研究は向いてないなってことに気づいちゃったんかなあ。知らんけど。
就活と文学の相性の酷さなのかなあ。知らんけど。少し前の自分はそんなことどうでもよかったんじゃなかったんかって感じだな。むしろ文学だって就活に役にたつ!って思ってたくらい強気じゃなかったか?


卒論のことを考えると憂鬱で仕方ない。
びっくりだよね。
院に行きたかった私は一体どこへ行ったのか。
まじで卒論どうしよう〜。

君の名は。再考

最初に観たときから三年が経ったが、なぜかその時から年月が経つほど、この映画を観る時のしんどさが増している。
この間久しぶりに観たとき、私はもうずっとしんどくてしんどくて、仕方なかった。
観るのに体力が必要なのだ。

夢灯篭が一番しんどい。なぜだろう。夢灯篭の最初の、イントロなのか効果音なのかわからないくらいのキラキラしたあの音の瞬間が一番しんどい。なぜだ。

試しにグーグルで「君の名は。 しんどい」と検索してみても全くほしい情報はヒットしない。くそ、なぜだ。

なぜこんなにしんどいのだろう。その理由がわからないことがまた君の名は。を何度も観たいと思わせる。
私はもう新海誠にハマってしまっている。


それから少し経って、一つ思ったことがあった。
君の名は。を観る時に起こるしんどさは、こんなに綺麗なものがあってたまるか、という気持ちと、綺麗なものをこれでもかと望んでしまう切実な気持ちのぶつかりあいだ、と。

三葉と瀧は町を救ったあと、数年経って再会する。
彼らは時空を超えて出会う。美しすぎる。新海誠の風景美と相まって、美しさは何倍にも膨れ上がる。
運命の相手とか、愛とか、そういうものは一般に、美しく描かれるし、君の名は。でもそれは例外ではなかった。
美しいものに惹かれてしまうと同時に、こんなに美しいものがあっていいものか、と思う。




美しい、といえば、君の名は。の冒頭、彗星が落ちてくるシーンを思い出さずにはいられない。

あの日、星が降った日
それは、まるで夢の景色のように
ただひたすらに美しい眺めだった

物語が進行して、再び彗星が落ちるシーンにたどり着くと、ニュースキャスターは、「こんな光景を見られる私たちは幸福だ」と言う。
実際、このシーンは新海誠の映像美これでもか、というほどの美しさである。
どこかで「風景が殴ってくる」という表現がされていたが、言い得て妙だと思った。
暴力的に美しいその彗星は、三葉が住む町を壊滅させた。
それでもやっぱり私は、君の名は。を観るたびにあのシーンを美しいと思ってしまう。
この彗星が三葉の町を、人の命を奪うことを知っているにもかかわらず。



彗星が町を奪ったように、二人の再会にも代償はあった。
大勢の君の名は。を観た人間が、これはハッピーエンドだ、と、秒速5センチメートルを引き合いに出して言った。
しかし、本当にそうなのだろうか?
私はこのエンドを、手放しでハッピーエンドだとはどうしても思えない。

観てる側からすれば、二人は再会している。しかし、あの二人的には、何年もあった「ずっと誰かを探している」感が解消されただけで、再会したという意識はない。
なぜこの人なのかもわからないし、あの奇跡の「瀧くんがいる……」も忘れているわけだ。


人は忘れる生き物だ。
どれほど強く印象に残っている記憶も風化する。思い出は美化される。
あの映画では、モノローグでそれがしつこく表される。さっきまで覚えていたはずのあの人の名前が思い出せない。忘れたくない人、忘れちゃダメな人、そう強く強く思っていても忘れてしまう。

瀧は三葉の手のひらに「すきだ」と書くが、お互いがお互いを忘れてしまうのを知った上で観ると、このシーンも本当にしんどい気持ちしかない。


三葉はそのメッセージを見たときに、「これじゃあ名前、わかんないよ……」と震える声で言い、そのあとまた力強く走り出す。
彼らはお互いのことを忘れて行きながら、お互いを強く強く思い、そして進んでゆく。

そしてそのあとの5年、8年間を、「ずっと誰かを探している」という気持ちを抱きながら、東京で暮らす。


私はこの物語を、運命の相手に出会えてハッピー、といったエンタメ青春ストーリーとしては観られない。
前に進んで行くことは、大事なものを忘れてゆくことだ。そしてこれが、この映画をみてしんどくなる理由である。

向上心

「向上心のない者はバカだ」
と彼女は言った。
私は笑いながら、「それなんだっけ」ときいた。
「Kの言葉だよ」
「ああそうだ、漱石だ」
と私は笑いながら手を叩く。

「私はこれを読んだ時めちゃめちゃ共感したんだよ」
と彼女は続ける。


彼女は「社会人になったら、なるからには昇進したい」
私は意外かのように「そうなんだ」と相槌。

それをききながら私は、私にはそういう意味での向上心は全くないなと思った。
トリプルファイヤーを憧れにしてしまうような人間だ、と朝思ったことを再度思う。


ちゃんとやることは好きだ。
目的に向かって自分のできることをやる。
できないことは課題として、克服するにはどうすればいいのか考える。
だがそれは、昇進したいとかそういう話とは全く別次元だ。


彼女は言った。
結果がないと精神的に苦しいから
と。
なるほど。
自分だけの満足感だけでは足りないということだろう。
確かに、他人の承認は必要かもしれない。

しかし私は思う。
昇進という結果が、私を満足させるのだろうか?と。
そこにある価値観は、一体どれ程の価値があるものだろうか?と。
それを、斜に構えていると言うなら言えばいい。

私の価値観はそこにはないし、だからといって、どうやら、私はKの言うバカでもないみたいだ。


何に価値を置くかは人それぞれで、少しずつだが、自分の価値観を明確にしてゆくことができている。


目標がないと生きられないのか、とたまに春日がラジオで言う。
私はこっちのKの言葉に強く共感するのだ。

小説とエッセイと

堪らなくなって本を閉じた。
さっき飲んだタピオカ冬瓜茶の甘みがまだ口の中に残っている。まるで口の中で角砂糖がタワーになっているみたいだ。
今、閉じた本くらいの甘ったれた比喩や表現なら私にだって十分できた。
だけど私には小説を終わらせる力がなかった、ただそれだけだった。
やっぱり、暇が私を憂鬱にさせるのか、と再度自問する。
昨日まではやることがあって、目の前にあるやるべきことをこなしていればそれで一日が勝手に終わった。漢字練習帳に漢字をひたすら書いて、気づけば夜になっていて、ご飯を食べて、風呂に入り、寝る。その繰り返しのような一週間を過ごしたが、それは不思議と悪くはなかった。
休日に何もすることがない、という大人たちの悩みが何だかわかるような気がした。休日は一日中寝ているだけだ、とか、そういうことを言っては、周りの人から「そんなんじゃダメだよ」と言われている大人。
不意に、梶井基次郎の『檸檬』の冒頭を思い出す。得体の知れない不吉な塊が私の心を始終抑えつけていたーー。まさに今の私の気持ちのような文だ。
檸檬』の凄いところは、特にドラマティックな展開が起こるわけでもなく、物語が終わるところだ。
物語には主人公の成長が不可欠だと思っていた私には、それは新鮮に映った。
檸檬』の主人公は成長しない。ただただ檸檬を爆発させる想像をして少し気持ちが楽になっているだけだ。
しかし私は今思う。
この物語でさえ、気持ちが楽にならないとオチがつかないのだと。この物語も、主人公の気持ちが少し楽になるという変化があって終わっているのだと。
私はスマホを取り出して、今の一連の思考を言語化してみた。










そして今それが終わった。
果たしてこれは小説だろうか、エッセイだろうか。
私はこの記事を、小説を書くような気持ちで書いていた。しかしここに書いてある思考の流れは全て、私が実際にしたものである。
どこにその境界線があるのだろう。

余裕と憂鬱

教育実習の半分が終わった。

憂鬱になることが激減している。


常に目的意識を持ちながら、行動することが好きだ。
ちゃんとやることが楽しい。
ちゃんとやれないとつまらない。

でもそれも毎日続けば飽きてしまうのだろうか?
一年生の時は文学も楽しかったように。


いや、それは違うだろう。
文学がつまらないのは、授業が同じことの繰り返しだからだ。
その証拠に、同じだけ続けている歌会はつまらなくない。
授業に期待できないなら、自分でやることを見つけるべきだ。


じゃあ、目的意識をもってちゃんとやっていれば、私は憂鬱にならないのだろうか?
それもなんだか違うような気もする。


教育実習は初めてやることばかりだ。
授業をすることも、50分間分のパワポを作ることも、そもそも海外に来ることも、初めてだ。
授業は自分としては満足のいくものができた。
自分は人前で、用意してきたことをすることが得意かもしれないと思った。

そういう、初めての原体験が、私を憂鬱から遠ざけているのではないか。


教育実習をすると原体験が手に入る。


じゃあ、私を憂鬱にする文学はどうか。

文学を学べば、人生は間違いなく豊かになる。
映画や小説を読んだ時に、これは古典のアレに似ている、と想像が膨らんでゆく経験はすでに何度もしている。




そもそも、私を憂鬱にしているのは本当に文学なのか。
同じことを何度も繰り返す学校の授業ではないのか。


短絡的な、思慮の浅い思考力で、憂鬱という楽な方向へ思考をシフトする癖がついてしまっている。


思考力がほしい。


境界線にいる。


思考力なんかなくても簡単に生きられる人たちを見ていると、私は思考力がある方だと思うが、自分がいざ思考を働かせてみると、すぐに破綻することに気づく。


いちいちこうして、普通の人が考えないでも済むようなことでつまづいている。

自分の好きなこととかやりたいこととかをやる前に、やらなくてはいけないことばかりに神経を使っては、面倒な文学を嫌っている。

しかし、文学が嫌いな人間が、天気の子をみてこれは古事記のアレだと思う、とか考えないのだ。

私は私の中の矛盾に気づいている。
ただ、矛盾していると思っているのは今の自分だけで、私にもっと思考力があれば、矛盾なんかしていないと感じるのかもしれない。


要は余裕がない。
目の前のことで精一杯で、文学、という、楽しむには難しく時間のかかるものに対して自分のエネルギーを使うほどの余裕が。


そういえば2年の時とった授業で、先生が「宿題は出さない。文学は余裕がないとうまく読めないから」と言っていたな。


ずっと未来に、もっと文学の知識が欲しいなと勝手に思う私が見える。
あの時にしかできなかったからやればよかったのにと後悔しているのだ。
しかしそれは違っている。
私は目の前のことで精一杯なんだよ。自分から古典文学を読もうって思えるほどの余裕がないんだ。