アイスクリームと獅子

気にしないでください

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*これは記事ではありません







はじめに



徒想
徒然草と随想から取った私の造語です。日々の考えていることについて節操もなく書き連ねています。
要は所謂雑記。


読んだ本の感想とか、読後の感覚とかを書いています。ネタバレはないと思います。


ドラマ
見たドラマの感想です。だいたい雑感で、メモみたいな感じで思ったことを書いています。ネタバレしてます。


音楽
その時好きな音楽について書いています。だいたい一曲について好きなところとかなんで好きなのかとか書いています。


映画
映画館で観た映画の感想を書いています。ネタバレしかしてません。たまにテレビとかで観たもので面白いものも書いています。


お笑い
お笑いの番組とかライブの感想です。


日記
日記です。その日あったことと感じたことを書いています。

空の青さを知る人よ ネタバレ

しんのとあおいが空を飛び、慎之介がそれを見て「飛んでんじゃねえか!」「タクシーもねえじゃねえか!」と言って必死に追いかける。
そのシーンを見て私は席で静かに爆笑していた。
だって慎之介は絶対に飛べないから。
だが、私が笑っていたのは、「急にファンタジーだな笑」みたいなことでも、「必死乙w」みたいなことでもない。



慎之介の気持ちは痛いほど分かった。
私も、こんな大人になるのだろうか、なんて考える。
というか、今だって、そうだ。もしも、かつての私が今の私を見たら、怒るんじゃないかなとか、たまに考える。
だけどそれは、仕方ない。
その方が、楽だし、そうでもしないと、生きていけないから。

夢を追いかけて東京に出たはいいものの、一度のソロデビューで終わり、あかねを迎えにいくことは到底できなかった。
今でも音楽を続けてはいるけど、それは自分が思い描いていたものとは程遠い。

そんな中で何も知らずにまっすぐ音楽をやっているあおいにイライラするのは、過去の自分の無知さと重なるからだ。

「それでも毎日生きてる」というセリフが印象的だった。自分の夢を追いかけてばかりでは生きられないのだ。
そうやって何かと理由をつけて、諦める癖がついてしまう。

だが、しんののまっすぐに走る姿を見て慎之介は走り出す。
絶対にしんのみたいには飛べない。
でも、飛べなくても走ることはできる。


それはなんとなく、希望みたいだったから、私は劇場で笑ったのだ。


「お前どこいくんだよ」とかつてのベーシストに言われ、「ガンダーラだよ!」と答える慎之介、最高に笑いました。よい!!

塩田明彦 さよならくちびる ネタバレ感想

三人の物語だった。
ハルとレオとシマの。
誰かの物語ではなくて、この三人の物語だった。


ハルとレオはかつて、お互いがお互いを求めていたんだろうと思う。
だけれどその思いは、どちらの思いも報われることはなかった。
ハルにとってのレオと、レオにとってのハルは、決定的に、致命的に異なっていた。
だから、ハルとレオはお互いを大切に思いながら、お互いを傷つけてしまう。
その積み重ねが、ハルレオ解散という形として、映画冒頭、私たち観客になんの説明もなく提示される。


私たちが最初知る情報は少ない。
ハルレオという音楽ユニットがあって、それが解散の意思を固めたこと。シマというマネージャーっぽい男が車を運転し、これからツアーをすること。ツアーを終えたら解散し、彼らは赤の他人になること。
これだけだ。
なぜ解散するのか、この三人の関係性はどうなっているのかは、全くわからずに話は始まる。


当然、それらは物語が進んでいくにつれ徐々に明らかになってゆく。

例えば解散ライブ一発目のシーン。観客から上がる声は殆どが「レオ〜」だった。
ああ、「こういうことか」と私はそのシーンだけを観て思うのだ。

わかりやすい説明はひとつもなかった。わかりやすい説明というのは例えば、「私は今こう思っていて、こういう理由で、解散を決めた」などとモノローグで説明してしまうなどである。
全くそういうことはなく、回想、現在、イメージの連関の中で、彼ら三人の中で何が起きているのかを私たちは知ることができる。



たとえばそれはハルレオが特集されるテレビ番組。
ハルレオのファンである女子中学生にインタビューするシーン。彼女たちの雰囲気はただならぬものだった。そこで私は思うのである。ああ、ハルレオはつまり、そういう関係性を含んでいるのだな、と。

そしてそれはイメージだけではなく、のちに明らかになる。森の中で、シマとレオが会話するシーン。
レオはシマに、苦しかったかどうかを聞く。この時のシマの「苦しかったよ」の表情。
このシーンが私は一番好きだ。


はじめに、「三人の物語だった」と書いた。
ハルレオというユニットが解散する、という一つの枠組みの中で、シマという人物はサブ的な役回りを担ってもおかしくはない。
だが違う。
シマは、ハルのことが好きだ。
だがハルは、叶わない想いを捨てない。
レオのことばかり考えている。
たとえ叶わないレオへの想いを捨てたところで、ハルはシマのことを好きになることはない。
シマは、それでも、ハルのことが好きだ。
その描き方が、とてつもなく繊細で、言葉なんか全く必要なくて、成田凌の演技力だけで、その思いがどんなものであるのかが伝わった。
その思いがどんなものなのかを言語化して、表出するのが言葉の仕事なのだと思ったら、言葉はなんて、無力なんだろうと思った。

私はここでブログを書く。ブログを書くけれど、映画の中で言語化されていない気持ちを言語化することができない。
抽象的なことばかり感想として書いてしまう自分の表現力を省みてしまった。


ハルの苦しみも、レオの苦しみも、シマの苦しみも、なんの解決もしないまま、彼らはツアーを終えた。
これからは赤の他人だからと車から降りるよう言うシマ。
しかし2人は一度降りた後車に戻ってきた。
なんの解決もしていないまま、彼ら三人はまた車を出す。彼らはこれからどうなるのだろう。
きっとまた、この映画で見せたような衝突を繰り返すのだろう。
だけれどそれは、きっと映画で見せた三人の関係性とはきっと、変わっている。
ほんの少しかもしれないが。


三人の物語だった。



追記
キスシーンが3回あったが、どれも痛切だった。
こんなに胸を締め付けられるキスシーンがあるのかと思った。それはどのキスシーンも、拒否が含まれていたからだろうか。
シマは拒否する側でもあり拒否される側でもあった。それが痛かった。とても。
傷つくのは拒否される側だけではないのだ。

嬉しいです

雨の中インターンに行った私は偉いし、他にもそういう人たちがいたらその人たちは全員例外なく偉いと思う。
絶対偉いんだからな、誰がなんと言おうと。

インターンの帰り道に、グループディスカッションを一緒にした子が「駅まで一緒に帰りませんか」と言ってくれた。私はとっさに返事ができず、拳を握った腕を彼女に向け振った。謎の行動である。その間に脳内で生まれた言葉「嬉しいです」を吐き出した。これまた謎の発言。というかちょっときもちわるい。
なんというか、私自身そういう行動をしたい側の人間なのだが実際にできない人間なので、嬉しかったのだ。こんなふうに私もさらっと言えればいいのになあ。返事もさらっとできない人間がさらっとそんなことを言えるはずがない。

「帰りませんか?」と言われて「いいですよ」っていうのはなんかすごく、偉そうに聞こえる気がするのだ。許可してやった感がある。「いいですね」これだったらまだいいだろうか。


まあでもそのあと駅までの数分を歩きながらしたお話は、とても楽しかった。初対面の人と話す内容なんて決まっているのだから、気も特に遣わずに話せて楽しい。とはいえど、それだけのことでも楽しくなるかどうかは人によって変わってくるから、お互い良いコミュニケーションだったのだろうな。

ジェンガ

いや、もともと、これと言って好きなものなんて一つもなかったのだ。

もっと言えば生きるために、自分が何を好きで何に価値を感じるのか、考えていたけれどやっぱりそんなものはわからない。
たしかにお笑いは好きだ。言葉も好きだ。でもそれがなんなのだ。好きだからなんなのだ。好きだと極めないといけないのか。

極めたいほど好きなものがない、って思っていた。けれどそもそも、「好きなものは極めてなんぼ」といった価値観自体が、誰かが作った誰かの価値観だということに、果てしない徒労感を覚えた。
私は私の価値観を探しているようで、それらしい誰かの価値観を探し当てたに過ぎなかった、ということに。


本当なら、発想が逆なのだ。私はこのために生きている、と言えるものが自分自身の価値観で、生きるために探す価値観など。そもそも価値観は探すものではない。


私が今まで信じていたことは、高校生の頃に崩れはじめて、今もまだ崩れ続けている。
勉強ができると役に立つとか、自分が女性であるとか、自分は文学が好きだということとか、表現したいこととか、目上の人の言うことが正しいとか、嘘をついてはいけないとか、周りの人に合わせて行動するとか。

あなたが生きづらいのは、あなたがあなたのことをわかっていないから、自分の価値観で生きられていないから、なんていうのはよほどわかったよ。
今まで自分が持っていた正しいと思っていたことが崩れていく様がその根拠だった。だからもっと疑って、疑って、疑って、諦めて、諦めて、諦めて、それで。
それで?じゃあ、どうしたらいい?


私がやっていたことはジェンガのようなことだった。
自分の価値観を新しく積み上げていると思っていたものは全て、元あったブロックを抜き取って上に重ねているだけ。
バランスが、みるまに悪くなって、もうグラグラだよ。
他の人の目の前にあるものを見れば、ジェンガなどではなく、自分で作った積み木やらなにやらが積み上げられていて、そしてそれは私のジェンガよりも高く、太く見えるのだった。

なんの弊害なんだ

乱れた生活をなんとかしなくてはいけない。
とりあえず、バイトも学校もない日に、何もしたいと思わないのだから、無理やり自分で予定を組む方がいいような気がする。何もせず寝ていたいと思っても結局一日中寝て過ごした自分を責めてしまうのなら意味がない。

と、以前自分で整理した趣味一覧を見てみる。休日に外でできそうなことは
水族館へ行く
美術館へ行く
映画館へ行く
茶店へ行く
の四つ。
上三つは一人で行ってもどうともないんだが、下一つが結構厄介だ。ドトールとかなら全然一人で行けるのだが、自営業のあまり人がいない喫茶店へ行ってコーヒーを飲んでも、どうその時間を楽しんだらいいのかあまりわからなかった。その楽しさは喫茶店というもの自体の楽しさというよりは、「一人で喫茶店でコーヒー飲んでる自分」に酔っているという感覚の方が強かった。
こう考えると、映画ってコスパいいんだなぁなんて思う。

無論、予定を立てておいて、「やっぱ今日はゲームがしたい」とか「本を一日中読んでたい」とか思ったならそれはそれでそれをすればよい。まあ滅多に「何かしたい」なんて思うことがない。「今日は暇だな〜…何をすればよいかな」と選択肢の中から消去法で選んでいるような人生だ。それで結局寝ているのだ。「動くとお金がかかるから」なんて真っ当そうな言い訳をしながら。
急に思い立って行動することができない。「予定」なんていうのは一人で行動するのには名目でしかないのに、あらかじめ決めておかないとできないのだ。なんの弊害なんだこれは。

生活が乱れる

何を書くことがあるだろう、と思った。
表現欲求だけが肥大化し、表現の術を持たない。
私には、なんの言葉もないのだと。
こうして、言葉を綴るフリをしながら、私の中の感情は、思考は、一ミリも、まったくもって、なのである。
最近の私はバイトがある日は朝早く起き、その後電車に乗って短歌の本を読み、学校へ行く。何のためにもならない授業を聞いて、家に帰ってくる。風呂に入る。人が作った飯を当たり前のように食う。誰が作ったかもわからない飯を食うことの方が多い。ベッドの中では何も考えないように、イヤホンを耳に入れて適当な動画を流す。聞くだけの動画を。
一体私は何をしているのだろうという気になる。
外にいるときは短歌の本を読んで、短歌のことを考える。考えたことはツイッターとか非公開ブログに書きつける。なんの秩序もない、文法も適当な文章になる。
たまに就活のことを考える。自分が行きたい職場はどんな職場だろうか。自分は社会に出て何ができるのだろうか。
インターンに申し込む。その日が来たらそれに行く。
たまに卒論のことを考える。何もわからないからすぐやめる。
何もない日はずっと寝ている。バイトがない日は学校に行く時間までずっと寝ている。たまに……ドクターマリオをプレイする。たまに……歌集を読んでいる。
パンプスを履いたらかかとが靴ずれで痛くなった。敷布団や掛け布団が擦れて痛い。ベッドから出て絆創膏を貼る。ゴミ箱がたくさんなのでその辺にゴミを捨てる。部屋は散らかる一方だ。
PS4は台風の日に、万が一のために引き出しの中にしまった。そのまま取り出していない。ラジオも最近は聞いていない。オードリーすら。
たりないふたりのライブビューイングに申し込もうとして、なぜかカードが登録できなくて諦めた。面倒になった。発表された瞬間はあんなに行きたがったのに。
こんなに短歌のことを考えているのに、自分が短歌で表現したいことがわからない。何もない。こんなに短歌のことを考えているのに、短歌のことは一向に好きにならない。むしろ嫌いになっていく。短歌というものに対する漠然とした怒りや虚しさか。
歌会の後は虚しくなることの方が多い。だけど私は今、週一回の歌会のために生きているといっても過言ではない。
ただいまと言っても何も返ってこないことの方が多い。
誰か私を抱きしめてくれ、と思う。だけどそんなことをされたら私は拒むと思う。
人と話すと楽しいが、後から自分の言動を振り返って恥じることが多い。もっと思慮深くなれないのか。酒を飲むと愉快だ。何も気にせず人と話せるのに、むしろコントロールがうまくいく。ような気がする。
22時に最寄り駅について、もうどうでも良くなってマクドナルドに行った。誰が作っても同じ味のハンバーガー、ポテト。揚げたてだったのかポテトはひとつひとつが光を帯びていた。