アイスクリームと獅子

※当ブログはアフィリエイト広告を利用しています←これは景品表示法の改正でみんながしているのをマネして書いたものです。

夏が終わってから来た夏休み はじまり

今日から夏休みということで六連休。
予定は特にないので、毎日ブログを書いていきたい。

ちょっと前だったら六連休もあるのになんの予定も入れていないことに焦り、誰かに連絡を取り、めちゃくちゃ行きたいというわけでもないけどなんとなく行きたい場所に行き、でもそれなりに楽しくて、という日を過ごしたかもしれない。
けれど、この連休は自分と向き合う連休にすると決めていた。だから実は淡路に行く予定が相手の都合で延びたのはラッキーだったかもしれない。

仕事が辛いまま続けているバチが当たったのか知らないが蕁麻疹が出た。
蕁麻疹ってこんなに辛いの?って思ってる。
ひどい仕打ち。
病院で薬もらって少しずつ収まってきてる気はする。
陽が落ちると出てきて、寝ようとするときにピークを迎えるので眠れなくてしんどい。
でも朝昼は全然平気。できるだけ早く布団に入って、朝早めに行動しようかと思う。

体の調子が崩れること自体、久しぶりだ。
体の調子を崩すとメンタルがよわよわになる。一人暮らしをしてから一番の変化はここかもしれない。
数ヶ月前に頭痛で動けなくなった1日があったけれど、そのときにも本当にメンタルが死にそうになってしまった。ちょっと頭痛で動けなくなっただけなのに、「もうこのまま自分は苦しいままずーっとずーっとひとりぼっちなんだ〜!ウワー!」みたいな気持ちになって泣き出す。
まさに認知の歪み。100%認知の歪み。誰でもわかる認知の歪み。

認知の歪みを認知すること自体難しい。
自分の中で論理を組み立てて、それがまるで正しい物のように思えてくる。
こんなことで会社を休んでしまって、この先どうするのか?とか。


メンタルがよわよわになって、それがきちんと固まらないまま今に至る。
ぐじゅぐじゅのメンタル。
対して乾き切ってしまった心。

でも今は少しだけメンタルも心の大地もやっと少し改善したかもしれない。
六連休だからかな?

予定が入ってないことにも焦っていないし

一人で本を読むことが、やっぱり自分にとっては一番素晴らしいことなのかもしれないと思い直している。

メンタルフルネス
そうだこの一ヶ月間で、一人でできる認知行動療法に取り組んでいた。
このアプリです。おすすめです。
無料でも使えるよ。
www.awarefy.app

これが少し効果があったのかもしれない。
いや、少しじゃないな。
知識として身についたものはたくさんあった。
実際に行動に移してみて、本当にほんの少しの変化だけれどその変化こそ大きな変化なのだ!みたいなことが起きたと思う。

例えばネガティブな感情が出てきたら、「今私は『(ネガティブな感情)』と思っているな』と思うこと。
そして、それを評価せずに、自分で自分がしたい行動を取るかその感情に振り回されるか決められること。

1cmって本があるけど
まさに、たった1cmなのだと思う
たった1cmできるかできないか。
開く前はなんかちょっとうさんくさいというか。
ポジティブポエムワードで人の心を動かす系かなって思ったけど、まああながち間違いでもなかったんだけど、意外にもいいなって思えた。
本にはふんだんに絵が書かれていて絵本みたい。文章読まなくても楽しい。
文章も自由な場所に置かれたり改行や色とかフォントとかも、凝られていて。ここも読まなくていい。意味を追わないでただ眺めるだけでいい。面白そうだと思ったら意味を追う。
なんかそういう自由な読書体験。

読書してると濃淡読みでいいとはわかっていても、どうでも良さそうなとこもじっくり理解しなきゃ!って思ってしまうんだけど、そんなこと本当にしなくて良い。

焦り
焦燥感
不安
不全感
この辺が最近の私の感情。
感情に言葉をうまくつけられなかったけど、自分のもやもやした不快な気持ちに言葉をつけるのはとても大事なセルフケアになるらしい。

心理学とかセルフケアとか精神科医が著者の本をよく手に取った。



丁寧な暮らし
その言葉に向けられる嘲笑はきっと、「丁寧な暮らし」というものを切り売りしていることへの、「丁寧な暮らしじゃなさ」、それで承認欲求を満たそうとしている欺瞞に向けられているのだろうと思う。

すごくよかった本、『仕事なんか生きがいにするな』の中で述べられている、「生きる意味とは?」という問いに対する答えは、ものすごく圧縮して仕舞えば「丁寧な暮らし」ということになると思う。
私はそれに同意できた。
厳密に言えば生きる意味は見出していくもので、見出すために丁寧な暮らしがある、っていうことなんだけど。丁寧な暮らしのために生きるわけではなく。

まあずっと「丁寧に」ってことを考えていて。身体の心地よさは丁寧さからくると思うんですよね。
この本には多分「丁寧」という言葉は出てこなかったと思うんだけど、「身体」という言葉は頻繁に出てくる。

ただその丁寧にってのがなかなか難しくてうまくいかなくてうまくできない自分に自己嫌悪でメンタルがぐずるっていうループにも陥りがちだったこの半年間。
いつまでも、自分のことばかりだなあって思ったりもする。結婚して子供を産んでいる人も同世代にはいるだろう。そうやって他者と生きていくのは、こんな自分のメンタルのお世話もできずにぐずぐずしてる人には、ぜったい無理だと。
でもまずは、自分を愛せよ。

メンタルフルネスの中でセルフコンパッションという概念を学んで実践の瞑想にも取り組んだら、びっくりしたけど涙が出てきた。
これは寝る前にしんどくて辛くて苦しくて泣いてしまう時の涙とはまったくちがう質のもので。
本を読んだり映画を見たりして素晴らしい感動に包まれた時の涙、若林さんの本を読んで泣いた時の涙に似ている。

セルフコンパッション
自分を愛すること。自分を大切にすること。
認知行動療法や、カウンセリングや本を通して、どれだけ今まで自分が自分を蔑ろにしてきたか?ということに思いを馳せるようになった。
一時Twitterでバズった森田療法うつ病漫画?読んでからそういうことは考えていたけど、そこにどんどん積み重なるみたいな感じで。
ameblo.jp
これだ。
自分で自分を蔑ろにしてた。いじめてた。


ぬいぐるみを抱きしめていると、こうして人は人に優しくするのかもしれないと思う。
私誰にもそんなことされてこなかったし誰にもそういうことしてこなかったなって悲しくなった。
瞑想を通して、誰にもそんなことされてこなかったという気持ちが、「自分で自分にそうすることができる」という気持ちに変わった…変わったというか実際に実践していたから気持ちとかじゃなくて現にそうだった。



丁寧な言葉遣いをしたい
相手への思いやりを持った言葉遣いを。
〜じゃねえわ
とか、普段友達や同期との会話の中では頻繁にやってしまう口調を捨てたい。
高校時代、一人称を「うち」から「わたし」へゆっくりと移行してった時のように、口調を移行していきたい。


書いてみて、本の話がベースになっている。
そのことに喜びを感じる。
文章を書き始めた理由の一つに不全感があったから、文章を書くことにはコンプレックスやネガティブが最初から含まれてしまっていた。それがもしかしたらずっと自分が文章を書いている意味を問うていた理由だったかもしれない。
でもそうじゃなくて、自分が喜びを感じられるからという理由で文章を書いていたい。
文章に関わらず全ての私の生活の営みにおいて。