アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

感想と日々の随筆。ごった煮です

朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』感想と読み

読了後、すごすぎる…と余韻と共に小説の凄さに打ちのめされていた。
いろいろな考察を読みたい!と思ったのだけど、そんなに「それな!」と思えるものが見つからなかったので、自分で書きます。
なんかあったら教えて下さい。
以下の内容は、ネタバレを含みます。

本を読んで考えたこと

読み終わった後は色んな考えが頭の中をめぐりなにがなんだかごちゃごちゃしていた。
次の日になってだんだんと整理されていく脳内。
インスタグラムをいつものように見ながら、いつもとは違う感想を抱いている自分に気づく。
まちがいなく、本書の影響だ。

そこには、毎日のように自分の持てる情報をわかりやすく切り取りし、加工し、伝えている情報系アカウントの数々がある。
私と殆ど年齢の変わらない人たち。会社で働いている、そこらへんにたくさんいそうな人たちだ。
だけど彼らには数十万人のフォロワーがいて、きっとインスタで収入もある。中には本を出版している人だっている。
私は彼らの投稿を見て、参考になるなあと思っている、数十万人のフォロワーのうちの一人だ。

だけど、こういう人たちの投稿を見ながら、「私には何ができるだろうか」だなんて考えては、自分にできることなどないなと落ち込んで、自分はどうしてブログや短歌などをやっているのだろう、と勝手に好きでやっているはずのことを勝手に責め、勝手に悩む私がいた。
私は、そうだ、この本で言うところの、「生きがい症候群」とやらによく似ている。

普段は、生きがいなんて、別になにもないし、自分がやりたいことも、誰かのためにしたいことも、将来どんな自分になりたいかも、別に考えてなんかいませんよ、自分は自分です、目の前のことをやり続けた先に未来があると思うんで、なんてことを考えている。
だけど、この本を読んだ後では、そういう自分のスタンスでさえ、対立や、生きがいを求めることをのらりくらりと避けている人間の「フリをしている」だけなのではないかと、自分のことを邪推してしまう。
この本を読みながら、「自分でやりたいことも誰かのためにしたいこともないが、それは許されない(と勝手に思い込んでいる)から、適当に注目されるような出来事にのめりこむ」人物である雄介とそれを取り巻くテーマや環境や他の人物の描写に対して、「私にはグサグサ刺さるというよりは、自分のやわらかいところをぐいぐいやられている感じだな」と思っていた。それが一番怖いような気がした。自分には、雄介や、他の登場人物たちのようなところがおそらくあるのに、なぜかこれらを自分のこととして捉えられない、無自覚ななにかが私の中にあるのではないかと思ったからだ。


何者かにならないといけない、なんていう言説は聞き飽きて、自分はそうではない、とも思っていた。
だけど本当にそうだと言いきれるか?
だって私は4月から普通に会社員になるし、と言う理由が言い訳めいて聞こえる。
そうは言っても、このまま、自分がしたいこともよくわからないまま、会社に勤めていいのか?自分が、自分のできることしたいことで、飯を食っていけるようにならないといけない時代が、もうすぐそこまできているのではないか?という不安は、実は私の中にも、あるよね?と。


智也が始終言っている、「そんなものなくても生きていい」という言葉は、いかにモノローグで彼の心情を語っていても、私にはきれいごとのように聞こえてしまった。
それよりは、雄介が言っていることのほうが、切実なような気がしたのだ。
だけど、それでも、私がこの本を読んで結局考えることは、智也が言っていたようなきれいごとによく似ている。
自分が自分であることを、いちいち自己受容していくしかない。私が一人で、毎日会社に勤めて、それでもブログなどで自分の言葉を紡ぐ喜びを感じながら、特に生きている理由などないと思いながら、それでもいいのだと、それでいいんだって、それでも少しは自分の未来のこととかを考えながら、日々を過ごすことしかできないんじゃないのか。
少し前であれば、いい大学をでて、いい会社に勤め、そうでなくとも、結婚し、子供を産んで家族を作れば、それが「しあわせ」ということだった。だけど、今はもう、そんな普遍的で絶対的なものがない。全ては自らの判断で相対的になってしまう。学校の成績が絶対評価になったこととは逆説的に。
何者にもならない、ということに勇気が必要な現代において、何者にもならず、日々を過ごすことが、逆に誰かや過去の自分を勇気づけることにもなるのかもしれない、などということを考えた。
きっと、それしかないよな、という諦めのようなものに落ち着くのだろう。

雄介という人を深読みしたくなった

話は小説自体の読みへ変わります。主要な登場人物の中で、雄介の視点だけがない。だからというわけではないが、雄介という人物を深読みしてみたくなった。
雄介は先程も書いたように、「自分でやりたいことも誰かのためにしたいこともないが、それは許されない(と勝手に思い込んでいる)から、適当に注目されるような出来事にのめりこむ」人物として書かれている。そしてのめり込む対象は必ず「対立」を含んでいる。
しかし、雄介は、最初から、対立を手段として自身が目立つことを目的としていたのだろうか?という疑問とも違和感とも取れるような感覚が私の中に芽生えた。
雄介と智也が生きた小学生、中学生時代、体育祭のピラミッドが中止され、危険だからと棒倒しが中止になり、成績の順位表が張り出されなくなった。対立を奪われた、と言ってもいい。そのたびに雄介はそれに対して強く抗議したと描写される。ここでの雄介は、対立することを手段にしているのだろうか?
逆に、このような対立を奪われた背景があって、大学時代の「自分がしたいことも、誰かにしたいと思うこともない」雄介になっていったのではないだろうか。
確かに雄介は、幼い頃から、神輿を担ぐしかない、選択肢がないことに対して嫌な気持ちを持っていたと描かれている。だが、幼い頃から、自分が男であることを背負わされ、神輿を担ぐことを期待され、嫌だけど、競争や対立が好きな、そういう自分を演じていたのだろうか?『帝国のルール』が好きな雄介も、父親の名刺に書かれている役職がかっこよくて自慢げに喜んでいた雄介も、そういう演技の中で存在していたとは、なんだか思いたくないのである。
自分がクラスメイトを引っ張っていることに酔っている小学生の雄介と、やりたいことなどないという大学生の雄介には、つながっているようで断絶があるように見えてならない。その断絶は、父親の職場を見て生まれたものなのではないか。父親の職場を見るまで雄介は、父親のことが自慢だったはずだ。でなければ、そんな父親の職場に行こうと、クラスメイトに片っ端から声をかけるはずがない。そんな自慢の父親像が一気に崩れ去る。ここで雄介は、完全に自分がしたいことやりたいことがわからなくなってしまったのではないだろうか。
対して智也は、対立なんて無理に作らないでいいんだよ、と言い、したいことなんてなくてもいいという。これは智也自身が言及しているが、智也は雄介とは違い、自分の父親に対する抵抗心や、雄介という対立の対象がいるのである。
最後智也は多分目を覚ましただろうけど、一体何を語り、それを聞いた四人はどう思うのだろうというのがとっても気になった。国語の授業だったら「続きを考えてみよう」みたいなのありそうだ。
まあそんな深読みをしてしまったよという話です。多分この読みは穴がありまくりなのでこんな事考えちゃったよーという記録(というエクスキューズ)。特段雄介というキャラクターが好きとかそういうわけでもないんだがなぜか考えてしまったな。雄介という人間の哀しさを。

他にも

他にも、この本は差別というテーマや他の様々なテーマをはらんでいる。企画の名のもとに作られたという本書には「海山対立」というエンタメ性もある(これを知らずに読んだので、最後それを知ったとき「半端ねえな、作家という生き物は」と思いました。このコロナという時代に読んだからこそリアリティが増しているのかもしれない。陰謀論とか、オカルトとかのテーマ性が付与されているような)。私は「生きがい」というテーマと雄介にフォーカスして書いてみたのですが、他に言及しようとすればいっぱいできると思う。考察のしがいがある作品だなと読み終わってすぐ思った。
ここまで読んでくれたあなたの考察や感想もぜひ読ませてください。


なんにでもなってOKという苦しさという点では、米澤穂信『いまさら翼といわれても』とも通じているなと思った。
icecreamrion.hatenablog.jp