アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

lionなのはわかっているよ

泡みたいに

考えていることはたくさんある。それをいちいち書いている。それでも全世界に公開するのはその一部分に過ぎない。お湯が鍋の中で沸騰する。泡がたち、そして消える。繰り返す。その泡のようなものだ。私がネットに公開する思考は。文章を書くこと。作品を作ること。生きること。死んでゆくこと。コンテンツを消費すること。その度に感じること、考えること。立っては消える。その泡のそのまた一部分を、消える前に写真に撮るようなものだ。

好きなもの。つまらない、わからないと言われ続けた。知らないよ、お前のことは。私は面白いと思う。好きだと思う。それをわかってくれる人間は少ない。私はそれを、他の誰かにしてはいなかったか。していたよなあ。でもどうしたって私にとってはつまらない。わざわざ言わなければいい。合わない人。合う人。合う人との時間。笑顔は必要だ。敵じゃないという証。人のことは理解できない。私も人に理解されない。だからベッドの上で、急に自分が地球外生命体なのではないかという妄想。空想。嫌い、気持ち悪い、普通じゃないと言われた。私は私の気持ちに自信がない。合わせなくちゃいけないからと思って無理やり好きになった。恋愛してると言った。自分もその言葉を信じていた。
生物学的に生まれついたら、捨てないといけないのでしょうか?いろいろな自分らしさみたいなものを。
楽になるならなんでもいい。それが生きることでも。どっちでも。笑っていればいい。生きていればいい。本当に?死んでゆこうよ。生きてゆくことと死んでゆくことは同じ。だからもっと気楽に。だって絶対的なものなのだから。
あなたのことを傷つける。私もあなたに傷つけられる。どんなに言葉を選んでもだ。選択して間違える。間違えるから恐れる。それでも誰かを傷つける。ならどうしたらいい?

ダイレクトに言うんじゃ怖いから、言葉を飾る。遠回りに言う。遠回りすぎて伝わらなくなる。それでも言葉を飾る。それで私の中の靄も澱も消えるのならばそれでいい。もっと自由に言葉を用いたい。飾ってみたり飾りをいかに落とすか挑戦してみたり、ぐらぐらしている。それは誰の言葉なんだ。人の言葉と人の言葉のつぎはぎだ。飾りすぎるんじゃ恥ずかしいから、無意味な言葉を置いてみる。突拍子のない固有名詞とか。ニギハヤミコハクヌシ。今出てきた固有名詞。
韻文と散文の中間。
こういう文章は嫌いなんだよなあ。でも自分が好きなものと自分が生み出すものは違うことが基本なのなら、自分が嫌いなものを自分が生み出すことだってあるだろう。ものは頑張って作るのではなくて、できてしまうものである。好きなものと嫌いなものの境目なんて曖昧で言語化できないことの方が多いけど。しかも実は、こういう文章を書きたいとか思っているんだから手に負えない。それで澱や靄が消えるのが一番だ。私はこういう言葉の紡ぎ方でしか自分を救えない。
絵は描けない。音楽にはなってくれない。人を笑わせることもままならない。身体能力も。美貌も。言葉しかない。言葉しかなかった。言葉すらもないのかもしれない。