アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

lionなのはわかっているよ

2020/05/07 日記

一番好きな先生の言葉が直接聞けないと言うことがわかって、少し凹んでいた。だけど先生から受講生に送られるメッセージがまんまその先生って感じがして、やっぱ大好きだという気持ち。直接言葉は聞けないけれど、やりとりができるってことっぽい。え。私の文章に対して個別に返信が来るの?最高じゃね。最高だわ。ちょっとキモチワルいというのは自分でもわかっている。
私はその先生の言葉の選び方や話し方がすごく好き。私もこんな話し方がしたい。先生の言葉を聞いているとそんなことを思う。

それぞれの人に、その人と関わっているときしか感じないことがいっぱいある。自分がなりたい自分のようなものを、ずっと無視してきた。「この人みたいになりたい」みたいなものを実際に指針として置いて、周りの人に流されないようにしたい。そのために存在する人を心において、私はその人に心の中で寄りかかる。私は間違っていない。だって私がなりたいのは、今一緒にいる大多数じゃなくて、私がなりたいと思っている人だから。


中学生の頃友人と交換日記をやっていた。昨日それをふと読み返していた。きっと意味のわからないことばかり言っているだろうから、読んでいて途中で恥ずかしくなって耐えられなくなるかもしれないと思っていた。だけど、あまりにもぶっとんでいて、もう笑いしか出ず最後まで読んでしまった。友人が友人でいちいち拾ってくれているから、自分だけ暴走しているわけじゃなかったのも大きい。ちゃんと交換日記になっていた。双方向コミュニケーションという意味で。その友人とは今でもたまに会っている。いい友人を持ったのだな。

その頃の私は受験生まっただなかであり、嵐の大ファンだった。たまに受験生特有の憂鬱感みたいなものが顔を出すが、ほとんどの言葉が嵐に対する愛をはじめとするポジティブなものだった。ポジティブすぎる。とにかく。だが、中学時代の自分と私ってそこまで変わっているのだろうかと思う。ネガティブかポジティブかでいったら、中学の時の自分も今と同じようにネガティブだったと思う。表に出していなかっただけで。むしろネガティブを表に出さないようにするために、必要以上にうるさく楽しく騒いでいたと記憶している。
それもいいよな、と思う。笑えてくるくらいポジティブ。たとえ偽物だったとしても。憂鬱であることを強調するのもいかがなものか。最近は文章を作るときにそんなことを考えていた。中学生の自分と今リンクしたような感覚。
中学生の自分を憑依させてみると、「コロナで家にいるときだからこそ楽しく過ごしたいよね!オードリー大好き!金スマ最高だった!」みたいなことになろう。こんなことやる気もないし全然やりたくないし吐き気すらしてくる。要は極端にしないでいいのだ。必要以上にネガティブもポジティブも強調しなくていい。ありのままでいい。表現しようとしなくていい。あることをそのまま書けばいいのだ。


山里亮太の不毛な議論を聞く。シカゴマンゴの音源が流れる水曜25時。10年も前とは思えないほどの面白さ。新鮮さ。声を出して笑った。
ツッコミ先行宣言!がリアルタイムで聞けるなんてという気持ちを高ぶらせる。24日夜への実感が強くなっていく。