アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

lionなのはわかっているよ

仲良くなりたい人

欲求は満たないものなんだよとか、生に意味はないんだよとかを言うことでしか、自分のモヤモヤを解消することができない。だけどそうやって、目的や意味をすかし続ける思考法も限界が来ると思う。


こないだ金曜ロードショー美女と野獣がやっていた、最後の方だけ観た。本編が終わった後、実写との比較をやっていて、私はそれを観て感動してしまった。アラジンのホールニューワールドの映像など、アニメに上回るわけないと思っていたものを実写が上回る。上回ると言うか、それぞれがそれぞれの最大値を叩き出している感じ。アニメーションにしかできない最大限、実写でしかできない最大限を、アラジンにせよ美女と野獣にせよ叩き出していると思わせる力があの映像にはあった。

私は実写はどちらも全編観ていた。例えばホールニューワールドのシーンだけを観てもこんなに感動できたのに、それが全編にわたってダレない映画なのだと思ったら、改めて映画館で観るべき映画とはこういうものだと感じた。
隣にいた母に「ここだけ観てもこれだけ美しいなんて感動しない?」といってみたところ「私は感動はしなかった」と言われてしまった。
私はわかってほしかったけれど、他人に感動を押し付けるのは無粋極まりないと思ったから、それ以上のことは言わなかった。おそらく言葉を尽くしてみても、徒労に終わるだろうと思ったし。


「感受性が昔からあなたは高いよ」とそのあと言われた。感受性の高さがなんだっていうのだろう。私はそう言われるといつも思ってしまう。中学生の頃担任に言われた時は誇らしかった感受性も、今や他人と関わるときに邪魔になるものでしかない。生活の上で邪魔になるものでしかない。

言葉を尽くしてみても伝わらない気持ちが君らにはわかるのか。


だからこそ私には短歌というものがあるのだろうな、などと思った。自分の気持ちを伝えようとするのなら、短歌なりなんなり作品媒体に昇華させないといけないのだと。そこにさらなる生みの苦しみが生まれるとしても。


それからもうひとつ。
中学生のあたりから私は「自分と同じ価値観の人と仲良くなりたい」という欲求があった。ある時友人にそれを伝えると、「その価値観って一体なに?」と聞かれた。答えられなかった。
だけどこの時に気がついた。
私がいう価値観とは、「同じものに美しさや魅力を感じ、それを言語化しようと努める」ことにあったのだと。

とはいえど、13歳から今に至るまで、そんな人とは出会えていない。この欲求が満たされないことが、私が憂鬱になった時に、「私はずっと1人である」という直観(思い込み)の理由になっている。
この欲求が満たされるためにどうすればいいのかもよくわからない。
欲求なんて満たされないのだよ、と言ったところで、私の生は続いていくのだ。私の孤独感は続いていくのだ。