アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

lionなのはわかっているよ

セルフ義務感

高校時代、ギターを弾くかケータイのゲームをするかの二択しか行動の選択肢がない時期があった。
今思えば、それはどれだけの時間を無駄にする行為だったか。
なぜなら私は、ギターを弾きたくて弾いていたわけではないし、ゲームをやりたくてやっていたわけではないからだ。


ケータイのゲームはライフがあって、1個20分で回復する。全部使い切ると、あと15分で一個回復することになる。それを回復するのを待って六個一気に使わないと、何かもったいない気がした。
そうやってやりたくもないゲームに対して「やらなきゃ」「やるからには効率よくやらなきゃもったいない」という思考を働かせて、一体何回の15分を無駄にしたのだろう。

ギターはやるだけ上手になるからまだいいが、それもやりたくないものを時間潰しでやっていたのに変わりはない。


別に他にやりたいこともなかったから、仕方なかったのだろうか。


その頃のくせが残っているのか、やりたいという欲求と、やらなきゃという義務感が同居している。

例えば本を読んでいて、「もっと速く読めるようになりたいな〜」と思ったとする。
そうするとそのうち、いつまで経っても速く読めるようにならない自分を否定してしまうようになる。
「もっと速く読めるようにならなければならない」
それを達成できていない自分はダメだ、と。


そもそも、「したい」という欲求は一体なんなのだろう。
例えば天気の子が観たい、という欲求の元にあるのはなんだろう。感動したい?涙を流したい?大音量で音楽を聴きたい?スクリーンで映画を観る時間に浸りたい?

私の欲求の対象は大抵、映画や本やらラジオやら、インプット型のものだ。多分それは私がアウトプット型の人間だからということと無関係ではない。
どの欲求も、おそらく「インプットしたい」という欲求が多くを占めている。
純粋な欲求は、最初に燃立ったあと、しばらくかけて消えてゆく。後に残るのは、観たいと思ったという記憶と、「インプットせねば」という義務感。

自分が一度読もうと決めた本を、最後まで読み切らないと次の本に進めない。たとえそれが思ったほど面白くなくても、やめられない。

このブログもそうではないか。
趣味以上の何かにするつもりもないのに、1週間以上記事を書いていないと「そろそろ書かないとなー」と勝手に思うのである。



やりたいこととやらなきゃいけないことは別だ。あれもこれもやりたい、やらなきゃ、やれてない、だめだ、うわあー、とパニックになってしまう。別に一つもやらなきゃいけないことなどない。
そうしてその先に待っているのは、「自分は一体何がしたいのか全然わからない」という苦しみだ。



やりたい時にやりたいことをやることが解決策だろう。
しかし、生活していると本当にやらなければいけないこともあるから、そんなに簡単にはいかない。
だからって、その時に起こった欲求を義務感にすり替えて、「後でやることリスト」に入れ、新たなタスクにしてしまうのは良くないのではないか。


やっと欲しいものが手に入った時には大抵、欲しい理由はなくなっているものである。

星野源『蘇る変態』p5

私にできることは、そういうものなのだと諦めることだけなのだろうか。