アイスクリームと獅子

アイスクリームと獅子

lionなのはわかっているよ

運命

私のことは誰にもわからない、ということに気がついたのは中学生の頃だった。そしてその頃は、その言葉はお守りのように私の精神安定に機能する言葉だった。
だけどその言葉がどんどん自分を苦しめる言葉に変わっていった。私は一人ぼっち。孤独な人間。誰にも心を開かない閉じた人間。私のことは誰にもわからないのではなくて、私が誰にも自分を分らせようとしていない。私がそうであることは私に非があるからではないか。そうして自分のことを責めることが増えた。
でもそれも最近では、やっぱ、自分のせいじゃないっしょという感覚になってきている。お守りにはなり得ないが。

私は基本的に人と人とは繋がりあえないと思っている。それなら私の人と繋がりたいと思う欲求は、一体何を求めているのか。つながれないと言う前提に基づき、どこかで妥協した欲求なのか。それともその繋がれなさ、叶わないことをこそ求めているのか?それは苦しいに決まってる。


話は変わって。


なりたいものになれるかどうかは自動的に決まるものだよねとやっぱり思うんだな。私は地味に運命というものを信じていて、多分自分に自由意志がないってことを言いたかったんだろう。自由意志という言葉を知らなかった中学生の私の思想はずっと今の私と繋がっていると思える。
こんなふうに私は中学生の時の自分がどうも好きだ。最近うまくいくとすぐ中学生の自分を持ち出して比較したがる。
大学で初めて習うことを全部「やっぱりそうじゃん」と思う。そういうことがこれまでも結構多かった。私は他の人より知っていると思っていたし、知っちゃってると思っていたし、本質的なものを感じ取る才能があって、芸術的なものに適していると思っていた。多分中学生の自分にこれをこのまま、「君はそう思ってるだろう?」と言っても否定はすると思う。でも今なら思う。君はそうだった。

どこかの誰かのセリフで、「自分は天才ではないといつ気がついた?」というかっこよさげなものがある。私はこれを言ってみたい。
でもその前に、みんなそんなふうに自分に何某かの才能があると無根拠に信じていた時代を持っているのだろうか。そもそも。それからまだその段階の場合おそらく無自覚だからこの質問は意味をなさない。この質問の意味がわからない人は、そもそもそういう思想になったことがないか、今もまだその渦中にいるかの二択だと思う。
でもそんな人いるのかなあ。みんな絶対自分は何者かになれるって思って生きてきたでしょう。今もそう思っている人もいるでしょう。諦めなければなれるとか、努力すればなれるとか、そういう大人たちのきらびやかな嘘によって、私たちは何者かになれるんだと錯覚する。

なりたいものややりたいものがない人は悩む。だってまるで自分がやりたいことを成し遂げた人が成功者で、勝者で、最高で、幸せかのように世の中が言うからだ。
でも、例えば自分が憧れる人間がなぜそうなったのかを聞いてみても、「努力したから」という答えが返ってくることはまずない。「そうなったから」そうなったのだ。
私だって文学博士になりたいと思って文学部に来たが、結局IT企業に内定をもらった。もちろん私の努力不足というところはあるかもしれないが、それだけが原因では、まあないわけだ。そしてそれでいいのだと思う。
私はもっとユニークでカッコよくてなんでも器用にこなしてみんなに優しい人間になりたいと思っていた。でも私はまじめでコツコツ頑張る人で派手じゃなくて地味でみんなに人気というよりは目の前にいる人を大事にするタイプだ。そしてそっちの方が自分らしいと認めることで随分楽になった。まじめな自分が嫌いだったし、ダサいと思っていたけど、それ誰がそう言うの?って思ったら、本当にくだらないことだった。まじめでダサいと言われて苦しんでいる人たちと一緒にまじめサイコーデモをしたいよ。