アイスクリームと獅子

気にしないでください

ほんとなみだ

泣こうと思って泣くことはよくある。
もちろん、それにはなんらかの原因はあるのだが、それは、泣かないぞと思えば泣かないで終わるのだ。堪えられる。




例えば、映画を見て、ドラマを見て、アニメを見て、漫画を読んで。
君の名は。を見て私は泣いたし、映画ドラえもんを見て私は泣くし、ちはやふるを見て泣く。3月のライオンを読んで泣きそうになる。

泣きそうになることは本当によくあって、でも本当に泣くかは別で、だいたいそういう時、泣こうと思えば涙は出るし、泣かないと思えば涙は出ないものだ。


泣いていない時にも「泣いた」と言うことがあるのは、泣きそうになったら泣くまではあとは自分の意思だから、ということなのだろう。






で、ここからが本題。
自分の意思ではなく、勝手に、自然に、堪えられない、そういう涙の話がしたい。
本とか映画とか、そういったものに触れて、勝手に涙が流れる経験をした人は、何人いるんだろうと疑問に思うことがある。
そして、それは本でなのか、映画でなのか、アニメでなのか、漫画でなのか、音楽でなのか、はたまた他のものなのか。
そしてそれを人生で何回経験するのだろうか。それは人生にどれほど影響を与えるのだろうか。




私はもう20歳だが、その経験がこれまで二回ある。
これは多いのか?少ないのか?というのも気になるのだが、知る由も無いのだろう。


私の場合、二回とも、「泣くわけがない」という逆張りをしていたもので泣いたので、その分衝撃が大きかった。私の中で「何かに突き動かされて涙を流す」というのは、人生において大事件だと思っているのだが、他の人はどうなんだろうかと思う。映画のCMで「泣きました!」と笑顔で言っている人たちには理解されないだろうか?


一度目は小学高学年の時に梨木香歩の「西の魔女が死んだ」を読んで泣いた。
私はこの本を、その2年前ほどに一度読んで、あまりの悲しみの大きさにショックを受け、もう背表紙も見たくないと思った。この本の内容を思い出すことが怖かったのだ。得体の知れない大きな悲しみに飲み込まれるのが怖かったのだ。だから、私は本棚の奥の方に、背表紙さえ見えないようにしまった。
それで少し気分は落ち着いたのだが、それでも本棚を見るたび、「あの奥にはあの本が眠っている…」と事あるごとに自分の気持ちは少し揺さぶられた。


小学校の頃のことなんか、ほとんど覚えてないのに、なぜかこのことだけはしかと覚えているのだから不思議だ。この時点で、既にかなり大きな読書体験をしていることに今書いていて気づいた。



本棚を見ても、気持ちが揺さぶられなくなった時、それが2年経った頃なのだろうが、私はもう一度あの本を読んでみようと思った。
多分、「そういえば奥にあの本隠してたな…」みたいな感覚だったかと思うが、よく覚えていない。
そして、私は泣いたのだ。
どんなだったか、これもよく覚えていないが、多分、本を閉じた後に泣いたような覚えがある。しばらく止まらなくなったことを記憶している。


その時思った。ドラマなどで、悲しい音楽が流れるシーンを見て泣きそうになったことはあるが、本当に泣いたことはなかった。堪えていたのもある。だけど今の私は堪えきれずに泣いてしまった、と。



ドラマで泣きそうになることも、私はすごいことだと思っていた。作り話が、音楽や俳優の力によって人を突き動かす。
ところが、本はどうか。
本は、言葉だけである。言葉しかない。音楽や音声、表情などの力を借りることはできない。
しかし人を突き動かして涙を流す力がある。



それに気づいて、私は、今までパン屋かパティシェールになりたいと思っていた将来の夢を、小説家に変えたのだ。
私の人生がここで一度変わったといってもあまり過言ではないだろう。
本のすごさを信じるようになったのはここからだ。自分で創作を始めたのもここからだ。今私が文学部にいる理由はここに見出しても構わない。今私が言葉や文学に関わる仕事をしたいと思っている理由もここから見出して構わない。



それからいろいろあった。
外国の本はほとんど読まなかった。父に勧められた本を中心的に読んだ。「氷菓」「武士道シックスティーン」「図書館戦争」「レインツリーの国」「ありふれた風景画」「博士の愛した数式」思い浮かぶのは全て父から勧められた本だな。
本を読んでもつまらなくなって本を読むことをやめたりもした。小説家なんて無理だと諦めた。本で泣くことも、それからずっとなかった。父を失った。人生が苦しくて仕方なかった。
andymoriの文学的な歌詞や国語で扱った梶井基次郎の「檸檬」、数々の古典作品に私は救われていたと思う。やはり、私は文学が好きだと思った。また本を読み始めた。すると少しだけ楽になった。あぁ、なんで私は本を読むのをやめていたんだろうと思った。馬鹿みたいだが、私は生きるために本を読んでいるのだと思った。




話がだいぶそれてしまった。
二度目に泣いたのは、若林正恭「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」である。
このブログにも1つの記事として書いた。
彼の前作に私は心を打たれまくり、すぐに今作を買った。
前作はまるで私のことが書いてあるのかと思うほどで、しかもさすがお笑い芸人といった文の面白さに一本取られたなぁと思った。私は彼の文が、言葉が好きだった。
発売された当初から気にはなっていたが、「キューバの旅エッセイ…?キューバのことよく知らないし、あんまり楽しめなさそうだな」と思ってしまっていた。それを、「やっぱり買おう!」とすぐさま行動に移したわけだから前作の力はすごい。


その前に、どんな感じの本なのか、ネタバレのないように少し調べた。この本の公式ツイッターが、いろんな人の感想をリツイートしていた。それを見ると、散見される「泣きました」の感想……。
私はそれを見て少し馬鹿にしたと思う。「ないやろ。キューバの旅だよ?若林正恭だよ?お笑い芸人だよ?」と。勘違いしないでほしいのは、お笑い芸人の本であることを馬鹿にしたわけではないことだ。
「泣ける何かがもしあったとしても、それはきっとよくある御涙頂戴的な何かなのではないだろうか?」とさえも思わなかった。泣ける何かなど一ミリもないと思っていたのだ。なんだかこの時の私の方が馬鹿みたいである。


どうだっただろう、2日くらいかけて読んだのだったかな。本を開くと、資本主義に対する違和感、前作と同じような周りへの違和感が書かれていて、「やっぱり、買って正解だった」とニヤニヤしながら読んだ。
より私の好きな文章になっていた。ページを繰るたびに、さぁ次はどこへ行き何が起こるのだろうか、それはどんな言葉で綴られるのだろうかとワクワクした。本を読みながらそういう経験ができることも久しぶりだった。



そして、終盤に差し掛かり、今までスラスラと読めていたのが急に引っかかり始める。正体不明の人物が現れるのだ。
そしてその人物が誰かわかった瞬間、「あ、やばい」と思った。泣きそうになったからだ。でもよくあるやつで、これは堪えられるはずだと思った。だがダメだった。涙は意に反して流れた。そのあとは止まらなくって、悲しみともなんとも説明のつかない涙が次々にあふれた。
拭っても拭っても出てくる。私は笑ってみた。さっき「ないやろ」と思っていたじゃないかと。しかしダメ。
少し落ち着いて、次のページを読み進めた。すると涙はさらにヒートアップする。涙にヒートアップという形容は合わない気もする。
いよいよ嗚咽をこらえながらだった。なんならもう大声を上げて泣き出してしまいたくなるほどだった。涙で視界が奪われて何度も本を置いた。


なんとか読み終えて、涙を抑えるためにしばらく時間を要した。涙が止まってからは呆然とした。
実に、7年ぶりだった。これほどまでに感情が突き動かされたのは。固まっていたものが解けていったようでもあった。




まさか私がまた本に泣かされることになるとは思わなかった。
同時に、四年前からあった息苦しさも生きづらさも、いろんな心の棘とかつっかかりも、全部涙とともに消えているような感覚になっていた。
この感覚はなんだろうと思った。わからなくて、納得したくて、いろんなところに書きつけた。



たくさん考えて、1つだけはっきりしたのは、「文学ってすごい」という今までの考えを改めて実感したということだった。あまりに稚拙な結論だけど、未だにこの時の感覚を理解できていない。



私は、「西の魔女が死んだ」を読んで泣いた時に自分の人生が変わったように、この本を読んで泣いたことで人生が変わったと思っている。この本を読んで泣いたことで、私は生きるのが楽になった。明日も生きていけると思った。自分のことを肯定していけるような気がした。ずーっと悩んでいたことが、解決しそうな気がした。

そして今私は、自分の生を肯定できているのだと思える。