アイスクリームと獅子

美しいものと美しくないもの

ことばのはなし

表現の手段に言葉がある。
私は小学校高学年から言葉を使って表現することをはじめた。

それだから、文章を書くのは好きだし、ある程度上手な文章が書けるという自負もある。


最初は、文を書くには語彙力が必要だからと、語彙力を増やすための努力をしていた。
でも、ある時に、表現に語彙力は必要ないことに気がついた。

表現に必要なのは、センスだ。


私は上手な文章を書くことができると思っている。けどそれは、「上手な文章の書き方」を知っているだけであって、それを知っていれば誰でもできることだ。
言葉をいくら知っていても、それを使いこなせるかどうか、どういう時にどういう言葉を使うかは、センス次第だ。

それに気づいてから私は、言葉で表現することに何度も絶望する。
自分に言葉のセンスがないことを何度も痛感させられる。




はっきり言って、表現は自己満だ。
私に限っていえば、誰かに認められたいからとか、誰かに褒めてほしいからとか、そういう理由で表現をしたことは一度もない。
証拠に、表現をしたことで「すごいね」といった言葉を言われてもひとっっっつも嬉しくない。(現に何度も言われてきたが一度も嬉しかったことなどない)
自分が感じていることが誰かに響いたら、それはなんて素敵なことだろうと思うけど、それでさえ表現の目的ではない。


「じゃあ、自分だけがわかるように書けばいい、センスなどなくても、自分がわかればいいではないか」
という声が聞こえてきそうだ。けれど、それは違う。

表現されたものは、誰かになにかしらの形で伝わらなければ意味がない。それはもはや表現とはいえない。
なぜか。
もしそうだったら、本当に自分の心の中だけで思っておけばいいのだ。わざわざ外に出す意味がない。
誰かにとって意味のわからないものは、未来の自分にとっても意味がわからないものになる。
むろん、伝わることと理解されることは別だ。

例えば桜に雨が降っている様子に心を打たれたとして、その心の動きを表現したいと思ったなら、どうすればいいのか。
単に「心を打たれた」と書くだけでは到底伝わらない。どんな風に心を打たれたのか?桜のどこが、そこに雨が降っているとなにが変わるのか?
それを伝わるように書かなければ、表現できたとは言えない。
また、心を打たれたことではなく、桜の美しさを伝えようとするのなら、表現の仕方は変わるだろう。


ここに私の苦しみはある。
心を打たれたときのあの感じは、辞書に載っている言葉には当てはまらないからだ。
言葉にするという行為は、物事に型をはめる行為だ。だけど決まった形を持っている物事の方が少ないから、どうしてもズレる。
自分が持つ言葉の中から、どう選び、どう組み合わせればいいのか。どうすれば、自分の思っていることと言葉がぴったり当てはまるのか。
それがちっともわからない。


言えているようで言えてない感覚がいつまでも続く。今ブログを書いていてもそうだ。当てはまらない、当てはまらない、まぁこの辺でいいか、少しズレてるけど。と思いながら書く。



周りを見渡してみると、物事にぴったりと当てはまる言葉を持ってきて表現できる人がちらほらといる。
その度に私に表現なんてできないと心底失望する。
だけどいつまでもいつまでも、表現のまねごとのようなものを続けてしまっている。