アイスクリームと獅子

美しいものと美しくないもの

だから文学から離れられない

私は「泣ける!」とかいうキャッチコピーが苦手だ。
映画を見て「泣けました!」と笑顔で言っているCMとかに嫌悪感を表す。
卒業式でも泣いたことはない。

そういうのを見ていると、「簡単に泣けて、いいっすね」とまで思うくらいのひねくれぶりだ。



そんな私が、何年振りかに泣かされてしまった。若林正恭の「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」である。
本で泣いたのは、というか本にしか泣かされたことはないのだが、小学校高学年の時に読んだ「西の魔女が死んだ」以来だった。



買う前に、ツイッターでちょろっと感想を見ていたら、何個か「泣きました」という感想があった。「ないだろ」と思ってた私がまんまと泣いてしまった。

「あっ、これ、泣きそう。やばいかも」と思った数秒後に、勝手に涙が頬を伝って、止めようと思っても無理だった。
「いやいやいやいや、さっきまで、ないだろって思ってたやん!」と心の中でツッコミを入れながら泣いた。
一度流れたらトリガーが外れたようにとめどなく溢れでてしまった。


「まじかよ」と言いながら、「うわぁーなんで泣いてんの」とか言いながら、意味わからなくなりながら、ちょっと笑ってみながら、
「いやいやよく考えて、若林だぞ!」(失礼なやつだ)と思いながら涙を止めようと試みても無理だった。「参ったなぁ」と思った。
手が震えて涙で視界が奪われて読み進められなくなった。
それでもなんとか読み終えて、今これを叫び出したい気持ちに駆られながら書いている。




前作と違って軽い共感とともに読み進めた今作。思ったことをノートに書き付けて行きながら読んでいたけど、読み終わった瞬間そんな感想たちはどうでもよくなった。



p176からの「音叉」。
キューバ最終日、散歩をしながら誰かと言葉を交わす著者。
誰だろうか?と思いながら読む。心のうちにいるもうひとりの自分か?と思ったが、途中の人間関係を音叉に喩すところで違う誰かだなと思う。
誰だろう。誰なんだろう。
私はこういうとき、気になって結論を先に読んでしまったりするのだけど、はやる気持ちをどうにか抑えてちゃんとその通りに読んだ。


そしてそれはその節の最後の一行でわかる。
ここで私の涙腺は壊れた。
そのあとの「マレコン通り」は嗚咽しそうになるのをこらえながら読んだ。何行かに一度本を置いて涙をぬぐいながら読んだ。
大声で泣き出してしまいたかった。
なんでだろう。
わからない。









以下ネタバレ












前作を読んで「自分じゃん」と思った。若林さんからしたら自分の半分しか生きていないガキにそんなことを思われるのははなはだ傲慢に映ると思う。自分でもそう思うから。
その人が自分の味方を失い、一人で悲しみたかったという。


親父が死んでから、僕は悲しみたかった。
でも、「俺は物心ついた時から親父はいなかった」とか「37歳まで親父が健在だったんだから幸運じゃないか」と言われると、悲しんではいけない気がした。
東京では。
この街では、肉親が死んだ時に悲しみに暮れることさえも、自意識過剰になってしまっている。
だから、逃げることにした。
知ってる人が誰もいない環境で一人になって思いっきり悲しみたかった。
だって、ぼくは悲しかったから。
p190

「だって、ぼくは悲しかったから」
私にはもう無理だった。勘弁してほしかった。
だって、「私は悲しかったから」なんて言えない。
私が父の死を悲しめないのはどうしてなんだろうと思う。
自分を客観視してしまうからなのかもしれない。


私はそのあとも、普通に学校に通って、普通にしていた。普通にしていなきゃいけないような気がしていたし、普通にすることは得意だったから。
「なんか、よくわからないんだよね」と言いながら。「実感わかないんだよね」とか言いながら。



本当はそんなことはないに決まっている。
自分の感情に蓋をしている。
それ以外に私は私を守る方法がわからないから。


ところが自分と同じだと少しでも思った人間が、素直に吐露している。そのことが、私にはもうどうしても無理だった。無理だったなんていうのはただの逆説で、どうしようもなく泣いてしまっていた。


そんなことに重ねないと自分の悲しみもわからないのだと思った。




本当は私はこの本についての感想を書きたかったのだけど、自分の話になってしまった。
どうして泣いてしまったのか考えずにはいられなかった。
この本の感想をこの後書くかもわからない。
とりあえず、それが今考えうる泣いてしまった理由だ。もしかしたら違うのかもしれないけど。






この本を買ってよかったと心から思う。