アイスクリームと獅子

美しいものと美しくないもの

島本理生「クローバー」

辻村深月の解説が印象的だ。


彼女はその解説の中で、「学生時代が楽しかったからこそ、そこに戻りたくない。
その理由を、この小説が教えてくれる。(要約)」と述べている。



それから、私が島本理生を好きな理由を、それこそさらりと述べてくれている。

ああ、本当に「よくあること」だ。しかし、それをこんなにも自然に私たちの言葉でさらりと言い切ってくれた小説がこれまであったろうかと唸ってしまった。


同著『リトル・バイ・リトル』の解説でも、原田宗典がこう述べていたのを思い出した。

島本理生は誰かに質問したわけでも、調べたわけでもないのに、小説は「話すように書けばよろしい」のだということを分かっている。

「話すように書く」というのは、つまり、ここでの例を引用すると、雨が降ったら「雨が降った」と書けば良い、ということだ。「銀色の雨がしとしと降った」などと書いてしまうのは、「書くように書いた」文である。とのこと。


なるほど、私が島本理生を好きだと感じたとき思ったのは、「無駄な文章、無駄な文、無駄な単語がない」ということだった。
それをこの2つの解説が、わかりやすく説明してくれている。





そんな話は置いといて『クローバー』の内容に戻る。


学生時代というモラトリアムの時期をどう過ごすべきなのか。
ただお酒を飲んで遊んでいればいいのか。恋愛していればいいのか。将来の貯蓄のためにバイトするのか。やっぱり学業をするのか。サークル活動するのか。


まさにモラトリアムを過ごす大学生の私は、すぐにこの話に入り込めてしまった。



双子の姉に幼い時から振り回されて、自分自身の選択をスッとできない焦燥感。
今の自分に対して満足していないわけでもなく、だからといって自信があるかといえばなく、それといって変わる努力もしない自分への嫌悪。
一度の失敗で、恋愛に臆病になってしまう気持ち。
大学院で研究することに憧れても、自分がそれを職業にできる自信なんか全くないこと。
そういう自分とは性格がまるで違う双子の姉に対する劣等感と、その姉に頼られる優越感。




そういう、自意識とか将来とかの不安や悩みを抱えると同時に、冬冶には大学生活を楽しく送れる家があり、友人がいる。
それは多分、楽しくて、幸せで、学生時代にしか味わえないきらめき。




そのきらめきは、一度だけ、その一瞬にしか味わえないものだ。
それは、ただのきらめきじゃない。
はたからみたら、青くて、とてつもなく青くて、痛い、そういう苦しみも同時に持っている。


だからこそ楽しくて、でもそこからいつか抜け出さないといけない。
冬冶も最後、そのモラトリアムの終わりを余儀なくされるわけだけども。



そんな苦しみと幸せと自意識とたくさんのものがないまぜになった日々は、やっぱり、今しかできないんだと思う。